2008年11月6日木曜日

 燐寸《マッチ》を擦《す》る事|一寸《いっすん》にして火は闇《やみ》に入る。幾段の彩錦《さいきん》を捲《めく》り終れば無地の境《さかい》をなす。春興は二人《ににん》の青年に尽きた。狐の袖無《ちゃんちゃん》を着て天下を行くものは、日記を懐《ふところ》にして百年の憂《うれい》を抱《いだ》くものと共に帰程《きてい》に上《のぼ》る。
 古き寺、古き社《やしろ》、神の森、仏の丘を掩《おお》うて、いそぐ事を解《げ》せぬ京の日はようやく暮れた。倦怠《けた》るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然《はき》とは映らぬ。瞬《またた》くも嬾《ものう》き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
 一人《いちにん》の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥《なまぐさ》き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏《まと》めたる団子《だんし》と、他の清濁を混じたる団子と、層々|相連《あいつらな》って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果《いんが》の交叉点に据えて分相応の円周を右に劃《かく》し左に劃す。怒《いかり》の中心より画《えが》き去る円は飛ぶがごとくに速《すみや》かに、恋の中心より振り来《きた》る円周は※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》の痕《あと》を空裏《くうり》に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎《かんきつ》の圜《かん》をほのめかして回《めぐ》る。縦横に、前後に、上下《しょうか》四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越《しんえつ》の客ここに舟を同じゅうす。甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君は、三春行楽《さんしゅんこうらく》の興尽きて東に帰る。孤堂《こどう》先生と小夜子《さよこ》は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で端《はし》なくも喰い違った。
 わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と他《ひと》の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破《か》けて飛ぶ事がある。あるいは発矢《はっし》と熱を曳《ひ》いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄《すさ》まじき喰い違い方が生涯《しょうがい》に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして自《おのず》からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢《お》うてただ別れる袖《そで》だけの縁《えにし》ならば、星深き春の夜を、名さえ寂《さ》びたる七条《しちじょう》に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢《ちょうたく》する。自然その物は小説にはならぬ。
 二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく幻《まぼろし》のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東の方《かた》に搬《はこ》び去ろうか、さらに無頓着《むとんじゃく》である。世を畏《おそ》れぬ鉄輪《てつわ》をごとりと転《まわ》す。あとは驀地《ましぐら》に闇《やみ》を衝《つ》く。離れて合うを待ち佗《わ》び顔なるを、行《ゆ》いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠《そらい》を意とせざるを、一様に束《つか》ねて、ことごとく土偶《どぐう》のごとくに遇待《もてなそ》うとする。夜《よ》こそ見えね、熾《さか》んに黒煙《くろけむり》を吐きつつある。
 眠る夜を、生けるものは、提灯《ちょうちん》の火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒《かじぼう》が下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で埋《うず》まってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
 京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束《じっぱひとからげ》に夜明までに、あかるい東京へ推《お》し出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらに解《ほご》れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛《しゃりょう》の戸をはたはたと締めて行く。忽然《こつぜん》としてプラットフォームは、在《あ》る人を掃《は》いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛《くちぶえ》が遥《はる》かの後《うし》ろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ気《げ》に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は淋《さび》しいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋《つたや》の隣家《となり》に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、家《うち》を畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは独《ひと》り言《ごと》のように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋《ずだぶくろ》を棚《たな》へ上げた腰を卸《おろ》しながら笑う。相手は半分顔を背《そむ》けて硝子越《ガラスごし》に窓の外を透《すか》して見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。轟《ごう》と云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何|哩《マイル》くらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐《あぐら》をかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。向《むこう》の棚《たな》に載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高の頂《いただき》を顫《ふる》わせている。給仕《ボーイ》が時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を眠《ねむ》っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
 汽車は轟《ごう》と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――余《あんま》りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは賞《ほ》める時の言葉なんだがな」
「千里の江陵《こうりょう》一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
 甲野さんは返事を見合せて口を緘《と》じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって轟《ごう》と走る。二人の世界はしばらく闇《やみ》の中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い夜《よ》を糸のごとく照らして動く電灯の下《もと》にあらわれて来る。
 色白く、傾く月の影に生れて小夜《さよ》と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居《すまい》に、盂蘭盆《うらぼん》の灯籠《とうろう》を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊《しょうりょう》を、東京の苧殻《おがら》で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。乗《の》し掛《かか》る怒《いかり》は、撫《な》で下《おろ》す絹しなやかに情《なさけ》の裾《すそ》に滑《すべ》り込む。
 紫に驕《おご》るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連《つら》なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長《たけなが》を顫《ふる》わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ滴《した》たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて赫《かっ》と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透《とお》って、当時《そのかみ》を裏返す折々にさえ鮮《あざや》かに煮染《にじ》んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒《はるさむ》の懐《ふところ》に暖めつつ、黒く動く一条の車に載《の》せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを抱《だ》きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑《みど》りを衝《つ》き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱《いだ》く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇《くらやみ》の遠きより切り放して、現実の前に抛《な》げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き逢《お》うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
 隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]《あご》の下に白くなる疎髯《そぜん》を握っては昔《むか》しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き籠《こも》って容易には出て来ない。漠々《ばくばく》たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々《れんれん》たるわれを、つれなく見捨て去る当時《そのかみ》に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩《ごましお》交《まじ》りの髯《ひげ》をぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳《いくつ》の時だったかな」
「学校を廃《や》めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山《あらしやま》へ連れていっていただいたでしょう。御母《おかあ》さんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子《だんご》もまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋《さんげんぢゃや》の傍《そば》で喫《た》べたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母《おっか》さんも丈夫だったがな。ああ早く亡《な》くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分|蒼《あお》い顔をしてね、そうして何だか始終《しじゅう》おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和《やさし》いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質《たち》の好い男でも、あのまま放《ほう》って置けばそれぎり、どこへどう這入《はい》ってしまうか分らない」
「本当にね」
 明かなる夢は輪を描《えが》いて胸のうちに回《めぐ》り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き刻《ぼ》りの深き記憶を離れて、咫尺《しせき》に飛び上がって来る。女はただ眸《ひとみ》を凝《こ》らして眼前に逼《せま》る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の髯《ひげ》を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで迎《むかえ》にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
 夢は再び躍《おど》る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを駛《か》ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を眠《ねむ》る。人も犬も草も木も判然《はき》と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転《まわ》りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を抱《いだ》いて眠についた。
 長い車は包む夜を押し分けて、やらじと逆《さか》う風を打つ。追い懸くる冥府《よみ》の神を、力ある尾に敲《たた》いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙《けぶ》る向うが一面に競《せ》り上がって来る。茫々《ぼうぼう》たる原野の自《おのず》から尽きず、しだいに天に逼《せま》って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼《まなこ》を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
 神の代《よ》を空に鳴く金鶏《きんけい》の、翼《つばさ》五百里なるを一時に搏《はばたき》して、漲《みな》ぎる雲を下界に披《ひら》く大虚の真中《まんなか》に、朗《ほがらか》に浮き出す万古《ばんこ》の雪は、末広になだれて、八州の野《や》を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫《そうぼう》の裡《うち》に、腰から下を埋《うず》めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫《むらさき》の襞《ひだ》と藍《あい》の襞とを斜《なな》めに畳んで、白き地《じ》を不規則なる幾条《いくすじ》に裂いて行く。見上ぐる人は這《は》う雲の影を沿うて、蒼暗《あおぐら》き裾野《すその》から、藍、紫の深きを稲妻《いなずま》に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然《かつぜん》として眼が醒《さ》める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘《いざな》う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑《すべ》り下りながら、窓をはたりと卸《おろ》す。広い裾野《すその》から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝《らくだ》の毛布《けっと》を頭から被《かむ》ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝《ね》なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「叡山《えいざん》よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変|軽蔑《けいべつ》するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退《の》けて動いた」と宗近君は頭陀袋《ずだぶくろ》を棚《たな》から取り卸《おろ》す。室《へや》のなかはざわついてくる。明かるい世界へ馳《か》け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
 窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯《そぜん》を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干《そこばく》の銀貨を握って、へぎ[#「へぎ」に傍点]折《おり》を取る左と引《ひ》き換《かえ》に出す。御茶は部屋のなかで娘が注《つ》いでいる。
「どうだね」と折の蓋《ふた》を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋《ながいも》の白茶《しらちゃ》に寝転んでいる傍《かたわ》らに、一片《ひときれ》の玉子焼が黄色く圧《お》し潰《つぶ》されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は箸《はし》を執《と》らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた箸《はし》を眺《なが》めながら、ぐっと飲む。
「もう直《じき》ですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋《ながいも》が髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗《きれい》に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入《はい》る。
「小野さんは宿を捜《さ》がして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯《めし》と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣《よねざわがすり》の襟《えり》を掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄《てさげかばん》を跨《また》いだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪《けつま》ずくと危ない」と注意した。
 硝子戸《ガラスど》を押し開《あ》けて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直《まっすぐ》に抜ける気で、中途まで来た時、宗近君が後《うし》ろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過《こわす》ぎてね。――阿爺《おとっさん》のように年を取ると、どうも硬《こわ》いのは胸に痞《つか》えていけないよ」
「御茶でも上がったら……注《つ》ぎましょうか」
 青年は無言のまま食堂へ抜けた。
 日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方《じんじっぽう》に飛び交《か》わす小世界の、普《あま》ねく天涯《てんがい》を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭《いと》わず植えつけし蚕《かいこ》の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半《よわ》を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は掃《は》き落されて、大空の皮を奇麗に剥《は》ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち上《のぼ》る窓の中《うち》に、四人の小宇宙は偶《ぐう》を作って、ここぞと互に擦《す》れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布《たくふ》を挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表《メヌー》を眺《なが》めながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕《ゆうべ》京都の停車場《ステーション》では逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで膏《あぶら》ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺《フォーク》を逆《さかしま》にして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々|情《なさ》けなさそうに白い膏味《あぶらみ》を頬張《ほおば》る。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「猶太人《ユデアじん》は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
「猶太人《ユデアじん》はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕《ボーイ》紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を外《はず》してしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想《けそう》して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で顎《あご》を支《ささ》えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に据《す》えたままぼんやり向うを見ている。
「蜜柑《みかん》が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と毫《ごう》も心配にならない気色《けしき》で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶《あいさつ》も聞く料簡《りょうけん》はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目《まじめ》に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児《ねんね》だね。しかし兄思いだよ。狐の袖無《ちゃんちゃん》を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突《ひじつき》でも造《こしら》えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
 肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に拡《ひろ》げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに擦《す》れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日《あす》の世界を擁して新橋の停車場《ステーション》に着く。
「さっき馳《か》けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
 四個の小世界は、停車場《ステーション》に突き当って、しばらく、ばらばらとなる。

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