2008年11月6日木曜日

「随分遠いね。元来《がんらい》どこから登るのだ」
と一人《ひとり》が手巾《ハンケチ》で額《ひたい》を拭きながら立ち留《どま》った。
「どこか己《おれ》にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯《からだ》も四角に出来上った男が無雑作《むぞうさ》に答えた。
 反《そり》を打った中折れの茶の廂《ひさし》の下から、深き眉《まゆ》を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫《かすか》なる春の空の、底までも藍《あい》を漂わして、吹けば揺《うご》くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然《きつぜん》として、どうする気かと云《い》わぬばかりに叡山《えいざん》が聳《そび》えている。
「恐ろしい頑固《がんこ》な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖《つえ》に身を倚《も》たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳《わけ》はない」と今度は叡山《えいざん》を軽蔑《けいべつ》したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝《けさ》宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行《ある》いていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽《あお》いでいる。日頃《ひごろ》からなる廂《ひさし》に遮《さえ》ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額《ひたい》だけは目立って蒼白《あおしろ》い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に曝《さら》して、粘《ねば》り着いた黒髪の、逆《さか》に飛ばぬを恨《うら》むごとくに、手巾《ハンケチ》を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩《ぼんのくぼ》の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに掻《か》き廻した。促《うな》がされた事には頓着《とんじゃく》する気色《けしき》もなく、
「君はあの山を頑固《がんこ》だと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排《あんばい》じゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、空《あ》いた方の手に栄螺《さざえ》の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の角《かど》から斜《なな》めに相手を見下《みおろ》した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖《ステッキ》を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや否《いな》や、歩行《ある》き出した。瘠《や》せた男も手巾《ハンケチ》を袂《たもと》に収めて歩行き出す。
「今日は山端《やまばな》の平八茶屋《へいはちぢゃや》で一日《いちんち》遊んだ方がよかった。今から登ったって中途|半端《はんぱ》になるばかりだ。元来《がんらい》頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 瘠《や》せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌《しゃべ》り続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損《みそこな》ってしまう。連《つれ》こそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当《けんとう》がつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。瘠《や》せた男は無言のままあとに後《おく》れてしまう。
 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫《つら》ぬいて、煙《けぶ》る柳の間から、温《ぬく》き水打つ白き布《ぬの》を、高野川《たかのがわ》の磧《かわら》に数え尽くして、長々と北にうねる路《みち》を、おおかたは二里余りも来たら、山は自《おのず》から左右に逼《せま》って、脚下に奔《はし》る潺湲《せんかん》の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更《ふ》けたるを、山を極《きわ》めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾《すそ》を縫《ぬ》うて、暗き陰に走る一条《ひとすじ》の路に、爪上《つまあが》りなる向うから大原女《おはらめ》が来る。牛が来る。京の春は牛の尿《いばり》の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち留《どま》りながら、先《さ》きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑《かん》と行き尽して、萱《かや》ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸《の》して、返れ返れと二度ほど揺《ゆす》って見せる。桜の杖《つえ》が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う間《ま》もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋《まるきばし》を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行《ある》いていると若狭《わかさ》の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴《き》いて見た。この橋を渡って、あの細い道を向《むこう》へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「叡山《えいざん》の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、仰《おお》せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行《ある》けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前《いちにんまえ》だがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから尾《つ》いて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
 渓川《たにがわ》に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛《かろ》うじて一縷《いちる》の細き力に頂《いただ》きへ抜ける小径《こみち》のなかに隠れた。草は固《もと》より去年の霜《しも》を持ち越したまま立枯《たちがれ》の姿であるが、薄く溶けた雲を透《とお》して真上から射し込む日影に蒸《む》し返されて、両頬《りょうきょう》のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野《こうの》さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯《からだ》を真直《まっすぐ》に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、遥《はる》か向うには、白銀《しろかね》の一筋に眼を射る高野川を閃《ひら》めかして、左右は燃え崩《くず》るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦《なす》り着けた背景には薄紫《うすむらさき》の遠山《えんざん》を縹緲《ひょうびょう》のあなたに描《えが》き出してある。
「なるほど好い景色《けしき》だ」と甲野さんは例の長身を捩《ね》じ向けて、際《きわ》どく六十度の勾配《こうばい》に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間《ま》に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近《むねちか》君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾《と》くに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳《いくつ》だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見《りょうけん》だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作《ぞうさ》もなく言って退《の》ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「冗談《じょうだん》を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退《ど》いてやれ」
 百折《ももお》れ千折《ちお》れ、五間とは直《すぐ》に続かぬ坂道を、呑気《のんき》な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の丈《たけ》に余る粗朶《そだ》の大束を、緑《みど》り洩《も》る濃き髪の上に圧《おさ》え付けて、手も懸《か》けずに戴《いただ》きながら、宗近君の横を擦《す》り抜ける。生《お》い茂《しげ》る立ち枯れの萱《かや》をごそつかせた後《うし》ろ姿の眼《め》につくは、目暗縞《めくらじま》の黒きが中を斜《はす》に抜けた赤襷《あかだすき》である。一里を隔《へだ》てても、そこと指《さ》す指《ゆび》の先に、引っ着いて見えるほどの藁葺《わらぶき》は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引《たなび》く霞《かすみ》は長《とこ》しえに八瀬《やせ》の山里を封じて長閑《のどか》である。
「この辺の女はみんな奇麗《きれい》だな。感心だ。何だか画《え》のようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女《おはらめ》なんだろう」
「なに八瀬女《やせめ》だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度|逢《あ》ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく雅《が》でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、悌《てい》、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋《そばや》に藪《やぶ》がたくさん出来て、牛肉屋がみんないろは[#「いろは」に傍点]になるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は廃《よ》せばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足《あとあし》で石を転《ころ》がしてはいかん。後《あと》から尾《つ》いて行くものが剣呑《けんのん》だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄《かれすすき》の中へ仰向《あおむ》けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を唱《とな》えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の杖《つえ》で、甲野さんの寝《ね》ている頭の先をこつこつ敲《たた》く。敲くたびに杖の先が薄を薙《な》ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「反吐《へど》が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも一《ひ》と休息《やすみ》仕《つかまつ》ろう」
 甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も傘《かさ》も坂道に転がしたまま、仰向《あおむ》けに空を眺《なが》めている。蒼白《あおじろ》く面高《おもだか》に削《けず》り成《な》せる彼の顔と、無辺際《むへんざい》に浮き出す薄き雲の※[#「條の木に代えて栩のつくり」、第3水準1-90-31]然《ゆうぜん》と消えて入る大いなる天上界《てんじょうかい》の間には、一塵の眼を遮《さえ》ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
 宗近君は米沢絣《よねざわがすり》の羽織を脱いで、袖畳《そでだた》みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う間《ま》に諸肌《もろはだ》を脱いだ。下から袖無《ちゃんちゃん》が露《あら》われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした狐《きつね》の皮が食《は》み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊《せんよう》の皮は一狐《いっこ》の腋《えき》にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は斑《まだら》にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど性《たち》の悪い野良狐《のらぎつね》に違ない。
「御山《おやま》へ御登《おあが》りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ妙《けったい》な所《とこ》に寝ていやはる」とまた目暗縞《めくらじま》が下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として天《そら》を眺《なが》めている。
「そう泰然と尻を据《す》えちゃ困るな。まだ反吐《へど》を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「厄介《やっかい》だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界|万斛《ばんこく》の反吐皆|動《どう》の一字より来《きた》る」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を担《かつ》いで麓《ふもと》まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々|辟易《へきえき》していたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌《あいきょう》のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分《いっぷん》でも余計動かずにいようと云う算段だな。怪《け》しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃《たお》す柔《やわら》かい武器だよ」
「それじゃ無愛想《ぶあいそ》は自分より弱いものを、扱《こ》き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁《きべん》を弄《ろう》するね。そんなら僕は御先へ御免蒙《ごめんこうむ》るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
 宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛《けずね》に纏《まつ》わる竪縞《たてじま》の裾《すそ》をぐいと端折《はしお》って、同じく白縮緬《しろちりめん》の周囲《まわり》に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き懸《か》けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路《そばみち》を飄然《ひょうぜん》として左へ折れたぎり見えなくなった。
 あとは静である。静かなる事|定《さだま》って、静かなるうちに、わが一脈《いちみゃく》の命を託《たく》すると知った時、この大乾坤《だいけんこん》のいずくにか通《かよ》う、わが血潮は、粛々《しゅくしゅく》と動くにもかかわらず、音なくして寂定裏《じゃくじょうり》に形骸《けいがい》を土木視《どぼくし》して、しかも依稀《いき》たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶《うやむや》の累《わずらい》を捨てたるは、雲の岫《しゅう》を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥《こうでい》を超絶したる活気である。古今来《ここんらい》を空《むな》しゅうして、東西位《とうざいい》を尽《つ》くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石《かせき》になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫《むらさき》も吸い尽くして、元の五彩に還《かえ》す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮《せん》ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側《こちらがわ》なるすべてのいさくさは、肉|一重《ひとえ》の垣に隔《へだ》てられた因果《いんが》に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情《なさ》けの油を注《さ》して、要なき屍《しかばね》に長夜《ちょうや》の踊をおどらしむる滑稽《こっけい》である。遐《はるか》なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
 考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行《ある》かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹《こんせき》を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて髄《ずい》にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に膨《ふく》れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に半《なか》ば掛けたる編み上げの踵《かかと》を見下ろす途端《とたん》、石はきりりと面《めん》を更《か》えて、乗せかけた足をすわと云う間《ま》に二尺ほど滑《す》べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に吟《ぎん》じながら、傘《かさ》を力に、岨路《そばみち》を登り詰めると、急に折れた胸突坂《むなつきざか》が、下から来る人を天に誘《いざな》う風情《ふぜい》で帽に逼《せま》って立っている。甲野さんは真廂《まびさし》を煽《あお》って坂の下から真一文字に坂の尽きる頂《いただ》きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を漲《みな》ぎらしたる果《はて》もなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
 草山を登り詰めて、雑木《ぞうき》の間を四五段|上《のぼ》ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿《しめ》っぽく思われる。路は山の背《せ》を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江《おうみ》の空を深く色どるこの森の、動かねば、その上《かみ》の幹と、その上の枝が、幾重《いくえ》幾里に連《つら》なりて、昔《むか》しながらの翠《みど》りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を埋《うず》め、三百の神輿《みこし》を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提《さまくさぼだい》の仏達を埋め尽くして、森々《しんしん》と半空に聳《そび》ゆるは、伝教大師《でんぎょうだいし》以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
 右よりし左よりして、行く人を両手に遮《さえ》ぎる杉の根は、土を穿《うが》ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、跳《は》ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする岩《いわお》の梯子《ていし》に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の階《かい》を、山霊《さんれい》の賜《たまもの》と甲野さんは息を切らして上《のぼ》って行く。
 行く路の杉に逼《せま》って、暗きより洩《も》るるがごとく這《は》い出ずる日影蔓《ひかげかずら》の、足に纏《まつ》わるほどに繁きを越せば、引かれたる蔓《つる》の長きを伝わって、手も届かぬに、朽《く》ちかかる歯朶《しだ》の、風なき昼をふらふらと揺《うご》く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗《てんぐ》のような声を出す。朽草《くちくさ》の土となるまで積み古《ふ》るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘《かわほりがさ》を力に、天狗《てんぐ》の座《ざ》まで、登って行く。
「善哉善哉《ぜんざいぜんざい》、われ汝《なんじ》を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
 甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放《ほう》り出すと、その上へどさりと尻持《しりもち》を突いた。
「また反吐《へど》か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖《つえ》で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間《すきま》に、的※[#「白+樂」、第3水準1-88-69]《てきれき》と近江《おうみ》の湖《うみ》が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸《ひとみ》を凝《こ》らす。
 鏡を延べたとばかりでは飽《あ》き足らぬ。琵琶《びわ》の銘ある鏡の明かなるを忌《い》んで、叡山の天狗共が、宵《よい》に偸《ぬす》んだ神酒《みき》の酔《えい》に乗じて、曇れる気息《いき》を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎《かげろう》を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷《ひとはけ》に抹《なす》り付けた、瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2-79-53]《れんえん》たる春色が、十里のほかに糢糊《もこ》と棚引《たなび》いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても嬉《うれ》しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々《にちにち》人間と御無沙汰《ごぶさた》になって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背《うしろ》にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手《ふところで》をしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門《まさかど》が気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》を吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を瞰下《みおろ》したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]を吐くより、反吐《へど》でも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨《だるま》だね」
「あの煙《けぶ》るような島は何だろう」
「あの島か、いやに縹緲《ひょうびょう》としているね。おおかた竹生島《ちくぶしま》だろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、質《もの》さえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが真《まこと》だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気《うわき》はなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのは真《ま》っ平《ぴら》御免《ごめん》だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「小刀細工《こがたなざいく》の好《すき》な人間がさ」
 山を下りて近江《おうみ》の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに眺《なが》めているのが甲野さんの世界である。

 紅《くれない》を弥生《やよい》に包む昼|酣《たけなわ》なるに、春を抽《ぬき》んずる紫《むらさき》の濃き一点を、天地《あめつち》の眠れるなかに、鮮《あざ》やかに滴《した》たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶《あでやか》に眺《なが》めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢《びん》の上には、玉虫貝《たまむしかい》を冴々《さえさえ》と菫《すみれ》に刻んで、細き金脚《きんあし》にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸《ひとみ》のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴《はんてき》のひろがりに、一瞬の短かきを偸《ぬす》んで、疾風の威《い》を作《な》すは、春にいて春を制する深き眼《まなこ》である。この瞳《ひとみ》を遡《さかのぼ》って、魔力の境《きょう》を窮《きわ》むるとき、桃源《とうげん》に骨を白うして、再び塵寰《じんかん》に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊《もこ》たる夢の大いなるうちに、燦《さん》たる一点の妖星《ようせい》が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉《まゆ》近く逼《せま》るのである。女は紫色の着物を着ている。
 静かなる昼を、静かに栞《しおり》を抽《ぬ》いて、箔《はく》に重き一巻を、女は膝の上に読む。
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「墓の前に跪《ひざま》ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋《うず》め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃《はら》い、この手にて香《こう》を焚《た》くべき折々の、長《とこ》しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶《ばくや》も我らを割《さ》き難きに、死こそ無惨《むざん》なれ。羅馬《ロウマ》の君は埃及《エジプト》に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋《うず》められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂《う》きわれに拒《こば》める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情《なさけ》だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱《はずかしめ》に、市《いち》に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇《あだ》なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫《えいごう》に隠したまえ。」
[#ここで字下げ終わり]
 女は顔を上げた。蒼白《あおしろ》き頬《ほお》の締《しま》れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重《ひとえ》の底に、余れる何物かを蔵《かく》せるがごとく、蔵せるものを見極《みき》わめんとあせる男はことごとく虜《とりこ》となる。男は眩《まばゆ》げに半《なか》ば口元を動かした。口の居住《いずまい》の崩《くず》るる時、この人の意志はすでに相手の餌食《えじき》とならねばならぬ。下唇《したくちびる》のわざとらしく色めいて、しかも判然《はっき》と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
 女はただ隼《はやぶさ》の空を搏《う》つがごとくちらと眸《ひとみ》を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]頭《あごさき》に飛ばして、泡吹く蟹《かに》と、烏鷺《うろ》を争うは策のもっとも拙《つた》なきものである。風励鼓行《ふうれいここう》して、やむなく城下《じょうか》の誓《ちかい》をなさしむるは策のもっとも凡《ぼん》なるものである。蜜《みつ》を含んで針を吹き、酒を強《し》いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華《ねんげ》の一拶《いっさつ》は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇《ちゅうちょ》する事|刹那《せつな》なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷《まよい》と書き、惑《まどい》と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間《ま》に引き上げる。下界万丈《げかいばんじょう》の鬼火《おにび》に、腥《なまぐ》さき青燐《せいりん》を筆の穂に吹いて、会釈《えしゃく》もなく描《えが》き出《いだ》せる文字は、白髪《しらが》をたわし[#「たわし」に傍点]にして洗っても容易《たやす》くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す訳《わけ》には行くまい。
「小野《おの》さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、崩《くず》れた口元を立て直す暇《いとま》もない。唇に笑《えみ》を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰《てもちぶさた》に草書に崩《くず》したまでであって、崩したものの尽きんとする間際《まぎわ》に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩《わずら》っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉《のど》を滑《すべ》り出たのである。女は固《もと》より曲者《くせもの》である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を継《つ》いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映《うつ》らぬ男の眼には、二の句は固《もと》より愚かである。
 女はまだ何《なん》にも言わぬ。床《とこ》に懸《か》けた容斎《ようさい》の、小松に交《まじ》る稚子髷《ちごまげ》の、太刀持《たちもち》こそ、昔《むか》しから長閑《のどか》である。狩衣《かりぎぬ》に、鹿毛《かげ》なる駒《こま》の主人《あるじ》は、事なきに慣《な》れし殿上人《てんじょうびと》の常か、動く景色《けしき》も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが外《そ》れれば、また継がねばならぬ。男は気息《いき》を凝《こ》らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面《ほそおもて》に予期の情《じょう》を漲《みなぎ》らして、重きに過ぐる唇の、奇《き》か偶《ぐう》かを疑がいつつも、手答《てごたえ》のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って彎《ひ》ける弓の、危うくも吾《わ》が頭の上に、瓢箪羽《ひょうたんば》を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き反《か》えて、女は始めより、わが前に坐《す》われる人の存在を、膝《ひざ》に開《ひら》ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、箔《はく》美しと見つけた時、今|携《たずさ》えたる男の手から※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取るようにして、読み始めたのである。
 男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬《ロウマ》へ行くつもりなんでしょうか」
 女は腑《ふ》に落ちぬ不快の面持《おももち》で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得《なっとく》する。小野さんは暗い隧道《トンネル》を辛《かろ》うじて抜け出した。
「沙翁《シェクスピヤ》の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
 小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳《か》け出そうとする。魚は淵《ふち》に躍《おど》る、鳶《とび》は空に舞う。小野さんは詩の郷《くに》に住む人である。
 稜錐塔《ピラミッド》の空を燬《や》く所、獅身女《スフィンクス》の砂を抱く所、長河《ちょうが》の鰐魚《がくぎょ》を蔵する所、二千年の昔|妖姫《ようき》クレオパトラの安図尼《アントニイ》と相擁して、駝鳥《だちょう》の※[#「翌の立に代えて妾」、第4水準2-84-92]※[#「たけかんむり/捷のつくり」、第4水準2-83-53]《しょうしょう》に軽く玉肌《ぎょっき》を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁の描《か》いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色《むらさきいろ》のクレオパトラが眼の前に鮮《あざ》やかに映って来ます。剥《は》げかかった錦絵《にしきえ》のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き袖《そで》を、さっと捌《さば》いて、小野さんの鼻の先に翻《ひるが》えす。小野さんの眉間《みけん》の奥で、急にクレオパトラの臭《におい》がぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然《がぜん》として我に帰る。空を掠《かす》める子規《ほととぎす》の、駟《し》も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける異《あや》しき色は、疾《と》く収まって、美くしい手は膝頭《ひざがしら》に乗っている。脈打《みゃくう》つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
 ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々《れんれん》と遠のく後《あと》を追うて、小野さんの心は杳窕《ようちょう》の境に誘《いざな》われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息《ためいき》の恋じゃありません。暴風雨《あらし》の恋、暦《こよみ》にも録《の》っていない大暴雨《おおあらし》の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬《き》ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒《おこ》ると九寸五分が紫色に閃《ひか》ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「沙翁《シェクスピヤ》が描《か》いた所を私《わたし》が評したのです。――安図尼《アントニイ》が羅馬《ロウマ》でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道《しらせ》を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬《しっと》で濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及《エジプト》の日で焦《こ》げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う間《ま》もなく長い袖《そで》が再び閃《ひらめ》いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺《なが》めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と抑《おさ》えた女は再び手綱《たづな》を緩《ゆる》める。小野さんは馳《か》け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰《なじ》り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように背《せい》が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮《ついきゅう》します。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆《おばあ》さんね」
 女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき靨《えくぼ》のなかに捲《ま》き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽《いつわ》りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓《しろ》い歯に交る一筋の金の耀《かがや》いてまた消えんとする間際《まぎわ》まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を疾《と》うから知っている。
 美しき女の二十《はたち》を越えて夫《おっと》なく、空《むな》しく一二三を数えて、二十四の今日《きょう》まで嫁《とつ》がぬは不思議である。春院《しゅんいん》いたずらに更《ふ》けて、花影《かえい》欄《おばしま》にたけなわなるを、遅日《ちじつ》早く尽きんとする風情《ふぜい》と見て、琴《こと》を抱《いだ》いて恨《うら》み顔なるは、嫁ぎ後《おく》れたる世の常の女の習《ならい》なるに、麈尾《ほっす》に払う折々の空音《そらね》に、琵琶《びわ》らしき響を琴柱《ことじ》に聴いて、本来ならぬ音色《ねいろ》を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細《しさい》は固《もと》より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に覗《のぞ》き込んで、いらざる臆測《おくそく》に、うやむやなる恋の八卦《はっけ》をひそかに占《うら》なうばかりである。
「年を取ると嫉妬《しっと》が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
 小野さんはまた面喰《めんくら》う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳《わけ》がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能《かんのう》なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に因《よ》るでしょう」
 角《かど》を立てない代りに挨拶《あいさつ》は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬《しっと》なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
 女の声は静かなる春風《はるかぜ》をひやりと斬《き》った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を外《はず》して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖《がけ》の上から、こちらを見下《みおろ》している。自分をこんな所に蹴落《けおと》したのは誰だと考える暇もない。
「清姫《きよひめ》が蛇《じゃ》になったのは何歳《いくつ》でしょう」
「左様《さよう》、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「安珍《あんちん》は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳《おいくつ》でしたかね」
「私《わたし》ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同《おな》い年《どし》でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど老《ふ》けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か奢《おご》りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「可愛想《かわいそう》に」
「可愛らしいんですよ」
 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極《きわ》まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固《もと》より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必《かなら》ず女である。男は必ず負ける。具象《ぐしょう》の籠《かご》の中に飼《か》われて、個体の粟《あわ》を喙《ついば》んでは嬉しげに羽搏《はばたき》するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音《ね》を競うものは必ず斃《たお》れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損《そこ》ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍《あんちん》のようなの」
「安珍は苛《ひど》い」
 許せと云わぬばかりに、今度は受け留《と》めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭《おいや》なの」
「私《わたし》は安珍のように逃げやしません」
 これを逃げ損ねの受太刀《うけだち》と云う。坊っちゃんは機《き》を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追《お》っ懸《か》けますよ」
 男は黙っている。
「蛇《じゃ》になるには、少し年が老《ふ》け過ぎていますかしら」
 時ならぬ春の稲妻《いなずま》は、女を出でて男の胸をするりと透《とお》した。色は紫である。
「藤尾《ふじお》さん」
「何です」
 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑《みど》り濃き植込に隔《へだ》てられて、往来に鳴る車の響さえ幽《かす》かである。寂寞《せきばく》たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁《ちゃべり》の畳を境に、二尺を隔《へだ》てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍《かたえ》を遠く立ち退《の》いた。救世軍はこの時太鼓を敲《たた》いて市中を練り歩《あ》るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息《いき》を引き取ろうとしている。露西亜《ロシア》では虚無党《きょむとう》が爆裂弾を投げている。停車場《ステーション》では掏摸《すり》が捕《つら》まっている。火事がある。赤子《あかご》が生れかかっている。練兵場《れんぺいば》で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄《あに》さんと宗近君は叡山《えいざん》に登っている。
 花の香《か》さえ重きに過ぐる深き巷《ちまた》に、呼び交《か》わしたる男と女の姿が、死の底に滅《め》り込む春の影の上に、明らかに躍《おど》りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来《きた》る心臓の扉《とびら》は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女《なんにょ》を、躍然と大空裏《たいくうり》に描《えが》き出している。二人の運命はこの危うき刹那《せつな》に定《さだ》まる。東か西か、微塵《みじん》だに体《たい》を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然《べきぜん》たる爆発物が抛《な》げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体《からだ》は二塊《ふたかたまり》の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》である。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利《じゃり》を軋《きし》る車輪がはたと行き留まった。襖《ふすま》を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は崩《くず》れた。
「母が帰って来たのです」と女は坐《すわ》ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然《はっき》と外に露《あら》わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎《なぞ》は、法庭《ほうてい》の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人《なんびと》も後指《うしろゆび》を指《さ》す事は出来ぬ。出来れば向うが悪《わ》るい。天下はあくまでも太平である。
「御母《おっか》さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸《か》ける前に居住《いずまい》をちょっと繕《つく》ろい直す。洋袴《ズボン》の襞《ひだ》の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突《つ》っかい棒《ぼう》に、尻を挙げるための、膝頭《ひざがしら》に揃《そろ》えた両手は、雪のようなカフスに甲《こう》まで蔽《おお》われて、くすんだ鼠縞《ねずみじま》の袖の下から、七宝《しっぽう》の夫婦釦《めおとボタン》が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩《ごゆっ》くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色《けしき》もない。男はもとより尻を上げるのは厭《いや》である。
「しかし」と云いながら、隠袋《かくし》の中を捜《さ》ぐって、太い巻煙草《まきたばこ》を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛《まぎ》らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産《エジプトさん》である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据《す》え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰《つづ》める便《たより》が出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭《くちひげ》を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀《ていねい》な命令を下した。
 男は無言のまま再び膝《ひざ》を崩《くず》す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋《さむ》しくっていけません」
「甲野君はいつ頃《ごろ》御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「御音信《おたより》が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出《おいで》になればよかったのに」
「私《わたし》は……」と小野さんは後を暈《ぼ》かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染《おなじみ》じゃありませんか」
「え?」
 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的|真面目《まじめ》になって、埃及煙草《エジプトたばこ》を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「御母《おっか》さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私《わたし》はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在《おあ》りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙《ごめんこうむ》ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床《ひらどこ》に据えた古薩摩《こさつま》の香炉《こうろ》に、いつ焼《た》き残したる煙の迹《あと》か、こぼれた灰の、灰のままに崩《くず》れもせず、藤尾の部屋は昨日《きのう》も今日も静かである。敷き棄てた八反《はったん》の座布団《ざぶとん》に、主《ぬし》を待つ間《ま》の温気《ぬくもり》は、軽く払う春風に、ひっそり閑《かん》と吹かれている。
 小野さんは黙然《もくねん》と香炉《こうろ》を見て、また黙然と布団を見た。崩《くず》し格子《ごうし》の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に挟《はさ》まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは頓《とん》と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障《きぬざわり》のしなやかに、布団《ふとん》が擦《ず》れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を覗《のぞ》いて見た。松葉形《まつばがた》に繋《つな》ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子《ななこ》の縁《ふち》が幽《かす》かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
 金は色の純にして濃きものである。富貴《ふうき》を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀《こいねが》うものは必ずこの色を撰《えら》む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石《じしゃく》の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨《ゴム》である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄《おりから》向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲《ま》がり椽《えん》を伝わって近づいて来る。小野さんは覗《のぞ》き込んだ眼を急に外《そ》らして、素知らぬ顔で、容斎《ようさい》の軸《じく》を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬《くろちりめん》の三つ紋を撫《な》で肩《がた》に着こなして、くすんだ半襟《はんえり》に、髷《まげ》ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母《おっか》さんは軽く会釈《えしゃく》して、椽に近く座を占める。鶯《うぐいす》も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終《しじゅう》御厄介《ごやっかい》になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽《おらく》に――いつも御挨拶《ごあいさつ》を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児《ねんね》で、困り切ります、駄々ばかり捏《こ》ねまして――でも英語だけは御蔭《おかげ》さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行《ゆ》かんものと見えまして――」
 御母さんの弁舌は滾々《こんこん》としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟《さしはさ》む遑《いと》まなく、口車《くちぐるま》に乗って馳《か》けて行く。行く先は固《もと》より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続《つづき》を読んでいる。
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「花を墓に、墓に口を接吻《くちづけ》して、憂《う》きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯《ゆ》をこそと召す。浴《ゆあ》みしたる後《のち》は夕餉《ゆうげ》をこそと召す。この時|賤《いや》しき厠卒《こもの》ありて小さき籃《かご》に無花果《いちじく》を盛りて参らす。女王の該撒《シイザア》に送れる文《ふみ》に云う。願わくは安図尼《アントニイ》と同じ墓にわれを埋《うず》めたまえと。無花果《いちじく》の繁れる青き葉陰にはナイルの泥《つち》の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》の舌《した》を冷やしたる毒蛇《どくだ》を、そっと忍ばせたり。該撒《シイザア》の使は走る。闥《たつ》を排して眼《まなこ》を射れば――黄金《こがね》の寝台に、位高き装《よそおい》を今日と凝《こ》らして、女王の屍《しかばね》は是非なく横《よこた》わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭《かしら》のあたりに、月黒き夜《よ》の露をあつめて、千顆《せんか》の珠《たま》を鋳たる冠《かんむり》の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及《エジプト》の御代《みよ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑《ねむ》る」
[#ここで字下げ終わり]
 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、焚《た》き罩《こ》むる錬香《ねりこう》の尽きなんとして幽《かす》かなる尾を虚冥《きょめい》に曳《ひ》くごとく、全《まった》き頁《ページ》が淡く霞《かす》んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母《おっか》さんは呼ぶ。
 男はやっと寛容《くつろい》だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向《うつむい》ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪《ひさしがみ》の、白い額に接《つづ》く下から、骨張らぬ細い鼻を承《う》けて、紅《くれない》を寸《すん》に織る唇が――唇をそと滑《すべ》って、頬《ほお》の末としっくり落ち合う※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]《あご》が――※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]を棄《す》ててなよやかに退《ひ》いて行く咽喉《のど》が――しだいと現実世界に競《せ》り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変|奇麗《きれい》な――汚《よご》さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を開《ひら》いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者《もの》の寄り合いだもんでござんすから、始終《しじゅう》、小供のように喧嘩《けんか》ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝《きょうかつ》手段は長者《ちょうしゃ》の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具《おもちゃ》の九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へ抛《な》げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間《みけん》へ向けて抛《な》げつけた。御母さんは苦笑《にがわら》いをする。小野さんは口を開《あ》く。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母《おっか》さんは遠廻しに棄鉢《すてばち》になった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終《しじゅう》身体《からだ》が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然《はきはき》したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を捏《こ》ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して貰《もら》いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋《のんきや》で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前《おまい》さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝《もろひざ》を斜《なな》めに立てて、青畳の上に、八反《はったん》の座布団《ざぶとん》をさらりと滑《す》べらせる。富貴《ふうき》の色は蜷局《とぐろ》を三重に巻いた鎖の中に、堆《うずたか》く七子《ななこ》の蓋《ふた》を盛り上げている。
 右手を伸《の》べて、輝くものを戛然《かつぜん》と鳴らすよと思う間《ま》に、掌《たなごころ》より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰《く》い留《と》められると、余る力を横に抜いて、端《はじ》につけた柘榴石《ガーネット》の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は紅《くれない》の珠《たま》に女の白き腕《かいな》を打つ。第二の波は観世《かんぜ》に動いて、軽く袖口《そでくち》にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は衝《つ》と立ち上がった。
 奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、疾《と》く動く景色《けしき》を、茫然《ぼうぜん》と眺《なが》めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
「御母《おかあ》さん」と後《うしろ》を顧《かえり》みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云って故《もと》の席に返る。小野さんの胴衣《チョッキ》の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、釦《ボタン》の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛《さんらん》と耀《かが》やいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど善《よ》く似合いますね」と御母《おっか》さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは煙《けむ》に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、止《よ》しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を外《はず》してしまった。

 柳《やなぎ》※[#「享+單」、第4水準2-4-50]《た》れて条々《じょうじょう》の煙を欄《らん》に吹き込むほどの雨の日である。衣桁《いこう》に懸《か》けた紺《こん》の背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋《くつたび》が三分一《さんぶいち》裏返しに丸く蹲踞《うずくま》っている。違棚《ちがいだな》の狭《せま》い上に、偉大な頭陀袋《ずだぶくろ》を据《す》えて、締括《しめくく》りのない紐《ひも》をだらだらと嬾《ものうく》も垂らした傍《かたわ》らに、錬歯粉《ねりはみがき》と白楊子《しろようじ》が御早うと挨拶《あいさつ》している。立て切った障子《しょうじ》の硝子《ガラス》を通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近《むねちか》君は貸浴衣《かしゆかた》の上に銘仙《めいせん》の丹前を重ねて、床柱《とこばしら》の松の木を背負《しょっ》て、傲然《ごうぜん》と箕坐《あぐら》をかいたまま、外を覗《のぞ》きながら、甲野《こうの》さんに話しかけた。
 甲野さんは駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の向《むき》を換えると、櫛《くし》を入れたての濡《ぬ》れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋《くつたび》といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ寝《ね》に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母《おっか》さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの額《がく》の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※[#「にんべん+孱」、51-3]雨※[#「にんべん+愁」、51-3]風《せんうしゅうふう》か。見た事がないな。何でも人扁《にんべん》だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの襖《ふすま》が面白いよ。一面に金紙《きんがみ》を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに皺《しわ》が寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居《どんちょうしばい》の道具立《どうぐだて》見たようだ。そこへ持って来て、筍《たけのこ》を三本、景気に描《か》いたのは、どう云う了見《りょうけん》だろう。なあ甲野さん、これは謎《なぞ》だぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが描《か》いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂《きちがい》の発明した詰将棋《つめしょうぎ》の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工《えかき》が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理《じり》が分ったら煩悶《はんもん》もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話《むかしばな》しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深《しゅうねんぶか》い人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納《ほうのう》したところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の轅《ながえ》と横木を蔓《かずら》で結《ゆわ》いた結び目を誰がどうしても解《と》く事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目《ノット》をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の帝《てい》たらんと云う神託《しんたく》を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見《りょうけん》がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯《ひきょう》なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪《えら》いと思ってるのか」
 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐《あぐら》のまま旅行案内をひろげる。雨は斜《なな》めに降る。
 古い京をいやが上に寂《さ》びよと降る糠雨《ぬかあめ》が、赤い腹を空に見せて衝《つ》いと行く乙鳥《つばくら》の背《せ》に応《こた》えるほど繁くなったとき、下京《しもきょう》も上京《かみきょう》もしめやかに濡《ぬ》れて、三十六峰《さんじゅうろっぽう》の翠《みど》りの底に、音は友禅《ゆうぜん》の紅《べに》を溶いて、菜の花に注《そそ》ぐ流のみである。「御前《おまえ》川上、わしゃ川下で……」と芹《せり》を洗う門口《かどぐち》に、眉《まゆ》をかくす手拭《てぬぐい》の重きを脱げば、「大文字《だいもんじ》」が見える。「松虫《まつむし》」も「鈴虫《すずむし》」も幾代《いくよ》の春を苔蒸《こけむ》して、鶯《うぐいす》の鳴くべき藪《やぶ》に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門《らしょうもん》に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀《こぼ》たれた。綱《つな》が※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎとった腕の行末《ゆくえ》は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨《はるさめ》が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園《ぎおん》では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
 甲野さんは寝ながら日記を記《つ》けだした。横綴《よことじ》の茶の表布《クロース》の少しは汗に汚《よ》ごれた角《かど》を、折るようにあけて、二三枚めくると、一|頁《ページ》の三《さん》が一《いち》ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執《と》って景気よく、
「一奩《いちれん》楼角雨《ろうかくのあめ》、閑殺《かんさつす》古今人《ここんのひと》」
と書いてしばらく考えている。転結《てんけつ》を添えて絶句にする気と見える。
 旅行案内を放《ほう》り出して宗近君はずしんと畳を威嚇《おどか》して椽側《えんがわ》へ出る。椽側には御誂向《おあつらえむき》に一脚の籐《と》の椅子《いす》が、人待ち顔に、しめっぽく据《す》えてある。連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19]《れんぎょう》の疎《まばら》なる花の間から隣《とな》り家《や》の座敷が見える。障子《しょうじ》は立て切ってある。中《うち》では琴の音《ね》がする。
「忽《たちまち》※[#「耳+吾」、56-1]《きく》弾琴響《だんきんのひびき》、垂楊《すいよう》惹恨《うらみをひいて》新《あらたなり》」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は謎《なぞ》である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭《はくとう》に※[#「にんべん+亶」、第3水準1-14-43]※[#「にんべん+回」、第3水準1-14-18]《せんかい》し、中夜《ちゅうや》に煩悶《はんもん》するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
 宗近君は籐《と》の椅子《いす》に横平《おうへい》な腰を据えてさっきから隣りの琴《こと》を聴いている。御室《おむろ》の御所《ごしょ》の春寒《はるさむ》に、銘《めい》をたまわる琵琶《びわ》の風流は知るはずがない。十三絃《じゅうさんげん》を南部の菖蒲形《しょうぶがた》に張って、象牙《ぞうげ》に置いた蒔絵《まきえ》の舌《した》を気高《けだか》しと思う数奇《すき》も有《も》たぬ。宗近君はただ漫然と聴《き》いているばかりである。
 滴々《てきてき》と垣を蔽《おお》う連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19]《れんぎょう》の黄《き》な向うは業平竹《なりひらだけ》の一叢《ひとむら》に、苔《こけ》の多い御影の突《つ》く這《ば》いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔《えいざんごけ》を這《は》わしている。琴の音《ね》はこの庭から出る。
 雨は一つである。冬は合羽《かっぱ》が凍《こお》る。秋は灯心が細る。夏は褌《ふどし》を洗う。春は――平打《ひらうち》の銀簪《ぎんかん》を畳の上に落したまま、貝合《かいあわ》せの貝の裏が朱と金と藍《あい》に光る傍《かたわら》に、ころりんと掻《か》き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴《き》くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に捕《とら》えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空《ほんらいくう》の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
 琴の手は次第に繁くなる。雨滴《あまだれ》の絶間《たえま》を縫《ぬ》うて、白い爪が幾度か駒《こま》の上を飛ぶと見えて、濃《こまや》かなる調べは、太き糸の音《ね》と細き音を綯《よ》り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃《むげん》の琴を聴《き》いて始めて序破急《じょはきゅう》の意義を悟る」と書き終った時、椅子《いす》に靠《もた》れて隣家《となり》ばかりを瞰下《みおろ》していた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟《りくつ》ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか旨《うま》いぜ」
と椽側《えんがわ》から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと椽《えん》まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色《けしき》がない。
「おい、どうも東山が奇麗《きれい》に見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川《かもがわ》を渉《わた》る奴《やつ》がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団《ふとん》着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩《みずかさ》が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても差《さ》し支《つか》えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖《きんぶすま》の筍《たけのこ》を横に眺《なが》め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう我《が》を折って部屋の中へ這入《はい》って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「幾何《いくつ》だと思う」
「幾歳《いくつ》だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然《はっきり》云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田《しまだ》だよ」
「座敷でも開《あ》いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減《いいかげん》な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら聴《き》きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの筍《たけのこ》を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、背《せい》が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙《からかみ》に三本|描《か》いたのは、どう云う因縁《いんねん》だろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の真青《まっさお》なのはなぜだろう」
「食うと中毒《あた》ると云う謎《なぞ》なんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎を釈《と》くじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、後《あと》から頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。昨日《きのう》ね、僕が湯から上がって、椽側《えんがわ》で肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨東《おうとう》の景色《けしき》を見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が障子《しょうじ》を半分開けて、開けた障子に靠《も》たれかかって庭を見ていたのさ」
「別嬪《べっぴん》かね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが糸公《いとこう》より好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、余《あん》まり他愛《たあい》が無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから椽側《えんがわ》まで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうち開《あ》くかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものは霞《かすみ》に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を披《ひら》いて本体を見つけようとしないから性根《しょうね》がないよ」
「霞の酔《よ》っ払《ぱらい》か。哲学者は余計な事を考え込んで苦《にが》い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山《えいざん》へ登るのに、若狭《わかさ》まで突き貫《ぬ》ける男は白雨《ゆうだち》の酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
 甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢《つや》のある髪で湿《しめ》っぽく圧《お》し付けられていた空気が、弾力で膨《ふく》れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》が擦《ず》り落ちながら、裏を返して半分《はんぶ》に折れる。下から、だらしなく腰に捲《ま》き付けた平絎《ひらぐけ》の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に畏《かしこ》まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は痩《や》せた体躯《からだ》を持ち上げた肱《ひじ》を二段に伸《のば》して、手の平に胴を支《ささ》えたまま、自分で自分の腰のあたりを睨《ね》め廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく畏《かしこ》まってるじゃないか」と一重瞼《ひとえまぶた》の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
「居住《いずまい》だけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「どてら[#「どてら」に傍点]を着て跪坐《かしこまっ》てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払《よっぱらい》らしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙《ごめんこうむ》ろう」と宗近君はすぐさま胡坐《あぐら》をかく。
「君は感心に愚《ぐ》を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹《かたはら》痛い事はないものだ」
「諫《いさめ》に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋《さび》し気に笑った。勢込《いきおいこ》んで喋舌《しゃべ》って来た宗近君は急に真面目《まじめ》になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑《はいふ》に入る。面上の筋肉が我勝《われが》ちに躍《おど》るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻《いなずま》を起すためでもない。涙管《るいかん》の関が切れて滂沱《ぼうだ》の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床《ゆか》を斬《き》るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、捕《とら》えがたい情《なさ》けの波が、心の底から辛《かろ》うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に転《ころ》がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、捕《つら》まえた人が勝ちである。捕まえ損《そこ》なえば生涯《しょうがい》甲野さんを知る事は出来ぬ。
 甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その速《すみや》かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明《あきら》かに描《えが》き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己《ちき》である。斬《き》った張《は》ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点《がてん》するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を描《えが》き出すのは野暮《やぼ》な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
 春の旅は長閑《のどか》である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》の馬簾《ばれん》をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語《ひとりごと》のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺《おやじ》が生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあ[#「なあ」に傍点]を引っ張った。
「つまり、家《うち》を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を襲《つ》いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一|叔母《おば》さんが困るだろう」
「母がか」
 甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
 疑がえば己《おのれ》にさえ欺《あざ》むかれる。まして己以外の人間の、利害の衢《ちまた》に、損失の塵除《ちりよけ》と被《かぶ》る、面《つら》の厚さは、容易には度《はか》られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見《りょうけん》か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか潜《ひそ》んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶《うかつ》には天機を洩《も》らしがたい。宗近の言《こと》は継母に対するわが心の底を見んための鎌《かま》か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を懸《か》けるほどの男ならば、思う通りを引き出した後《あと》で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率《しんそつ》なる彼の、裏表の見界《みさかい》なく、母の口占《くちうら》を一図《いちず》にそれと信じたる反響か。平生《へいぜい》のかれこれから推《お》して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵《ふち》の底に、詮索《さぐり》の錘《おもり》を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損《みそく》なった母の意を承《う》けて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程《きてい》以前に、家庭のなかに打《ぶ》ち開《ま》ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は発《き》くまい。
 二人はしばらく無言である。隣家《となり》ではまだ琴《こと》を弾《ひ》いている。
「あの琴は生田流《いくたりゅう》かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無《ちゃんちゃん》でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
 丹前の胸を開いて、違棚《ちがいだな》の上から、例の異様な胴衣《チョッキ》を取り下ろして、体《たい》を斜《なな》めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無《ちゃんちゃん》は手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。旨《うま》いもんだ。御糸《おいと》さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴《あいつ》が嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父《おじ》さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母《おっか》さんの云う通りに君が家《うち》を襲《つ》いで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は厭《いや》なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
 宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また鱧《はも》を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に愚《ぐ》な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅覚《きゅうかく》は非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺《おやじ》も外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯《さえき》と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。倫敦《ロンドン》で買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の玩具《おもちゃ》になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あの鏈《くさり》に着いている柘榴石《ガーネット》が気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの片身《かたみ》に僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
 甲野さんは、だまって宗近君の眉《まゆ》の間を、長い事見ていた。御昼の膳《ぜん》の上には宗近君の予言通り鱧《はも》が出た。

 甲野《こうの》さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
 小野さんは色を見て世を暮らす男である。
 甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「生死因縁《しょうしいんねん》無了期《りょうきなし》、色相世界《しきそうせかい》現狂癡《きょうちをげんず》」
 小野さんは色相《しきそう》世界に住する男である。
 小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖《つつそで》を着て学校へ通う時から友達に苛《いじ》められていた。行く所で犬に吠《ほ》えられた。父は死んだ。外で辛《ひど》い目に遇《あ》った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
 水底《みなそこ》の藻《も》は、暗い所に漂《ただよ》うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に揺《うご》こうが、左《ひだ》りに靡《なび》こうが嬲《なぶ》るは波である。ただその時々に逆《さか》らわなければ済む。馴《な》れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇《ひま》もない。なぜ波がつらく己《おの》れにあたるかは無論問題には上《のぼ》らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に生《は》えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
 京都では孤堂《こどう》先生の世話になった。先生から絣《かすり》の着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園《ぎおん》の桜をぐるぐる周《まわ》る事を知った。知恩院《ちおんいん》の勅額《ちょくがく》を見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前《いちにんまえ》は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
 東京は目の眩《くら》む所である。元禄《げんろく》の昔に百年の寿《ことぶき》を保ったものは、明治の代《よ》に三日住んだものよりも短命である。余所《よそ》では人が蹠《かかと》であるいている。東京では爪先《つまさき》であるく。逆立《さかだち》をする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
 きりきりと回った後《あと》で、眼を開けて見ると世界が変っている。眼を擦《こ》すっても変っている。変だと考えるのは悪《わ》るく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜《たま》わった。浮かび出した藻《も》は水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
 世界は色の世界である。ただこの色を味《あじわ》えば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれて鮮《あざ》やかに眼に映《うつ》る。鮮やかなる事錦を欺《あざむ》くに至って生きて甲斐《かい》ある命は貴《とう》とい。小野さんの手巾《ハンケチ》には時々ヘリオトロープの香《におい》がする。
 世界は色の世界である、形は色の残骸《なきがら》である。残骸を論《あげつら》って中味の旨《うま》きを解せぬものは、方円の器《うつわ》に拘《かか》わって、盛り上る酒の泡《あわ》をどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに見極《みきわ》めても皿は食われぬ。唇《くちびる》を着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の巵《さかずき》を抱《いだ》いて、路頭に跼蹐《きょくせき》している。
 世界は色の世界である。いたずらに空華《くうげ》と云い鏡花《きょうか》と云う。真如《しんにょ》の実相とは、世に容《い》れられぬ畸形《きけい》の徒が、容れられぬ恨《うらみ》を、黒※[#「甘+舌」、72-14]郷裏《こくてんきょうり》に晴らすための妄想《もうぞう》である。盲人は鼎《かなえ》を撫《な》でる。色が見えねばこそ形が究《きわ》めたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作《しょさ》である。小野さんの机の上には花が活《い》けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡《めがね》が掛かっている。
 絢爛《けんらん》の域を超《こ》えて平淡に入《い》るは自然の順序である。我らは昔《むか》し赤ん坊と呼ばれて赤いべべ[#「べべ」に傍点]を着せられた。大抵《たいてい》のものは絵画《にしきえ》のなかに生い立って、四条派《しじょうは》の淡彩から、雲谷《うんこく》流の墨画《すみえ》に老いて、ついに棺桶《かんおけ》のはかなきに親しむ。顧《かえり》みると母がある、姉がある、菓子がある、鯉《こい》の幟《のぼり》がある。顧みれば顧みるほど華麗《はなやか》である。小野さんは趣《おもむき》が違う。自然の径路《けいろ》を逆《さか》しまにして、暗い土から、根を振り切って、日の透《とお》る波の、明るい渚《なぎさ》へ漂《ただよ》うて来た。――坑《あな》の底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴《ふしあな》から覗《のぞ》いて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点の紅《くれない》がほのかに揺《うご》いている。東京へ来《き》たてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのも厭《いと》わず、たびたび過去の節穴を覗いては、長き夜《よ》を、永き日を、あるは時雨《しぐ》るるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ遠退《とおの》いた。その上、色もよほど褪《さ》めた。小野さんは節穴を覗く事を怠《おこ》たるようになった。
 過去の節穴を塞《ふさ》ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇《ばら》である。薔薇の蕾《つぼみ》である。小野さんは未来を製造する必要はない。蕾《つぼ》んだ薔薇を一面に開かせればそれが自《おのず》からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の管《くだ》から眺《なが》めると、薔薇はもう開いている。手を出せば捕《つら》まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の傍《そば》で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
 論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、必《かなら》ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色《こんじき》に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸《かか》っている。時計の下には赤い柘榴石《ガーネット》が心臓の焔《ほのお》となって揺れている。その側《わき》に黒い眼の藤尾さんが繊《ほそ》い腕を出して手招《てまね》ぎをしている。すべてが美くしい画《え》である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
 昔《むか》しタンタラスと云う人があった。わるい事をした罰《ばち》で、苛《ひど》い目に逢《お》うたと書いてある。身体《からだ》は肩深く水に浸《ひた》っている。頭の上には旨《うま》そうな菓物《くだもの》が累々《るいるい》と枝をたわわに結実《な》っている。タンタラスは咽喉《のど》が渇《かわ》く。水を飲もうとすると水が退《ひ》いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺|前《すす》むと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っ懸《か》けて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長い眉《まゆ》を押しつけたように短かくして、屹《きっ》と睨《にら》めている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって剥《は》げながら暗くなる事がある。時計が遥《はる》かな天から隕石《いんせき》のように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を描《えが》き出す。
 机の前に頬杖《ほおづえ》を突いて、色硝子《いろガラス》の一輪挿《いちりんざし》をぱっと蔽《おお》う椿《つばき》の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手《ひらて》でたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですと向《むこう》をむいて、すたすた歩き出す」
 小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻《ざんこく》なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]《あご》を持ち上げると、障子《しょうじ》が、すうと開《あ》いて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流《すごうりゅう》にかいた名宛《なあて》を見た時、小野さんは、急に両肱《りょうひじ》に力を入れて、机に持たした体《たい》を跳《は》ねるように後《うしろ》へ引いた。未来を覗く椿《つばき》の管《くだ》が、同時に揺れて、唐紅《からくれない》の一片《ひとひら》がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。完《まった》き未来は、はや崩《くず》れかけた。
 小野さんは机に添えて左《ひだ》りの手を伸《の》したまま、顔を斜《なな》めに、受け取った封書を掌《てのひら》の上に遠くから眺《なが》めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当《けんとう》はついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて亀《かめのこ》に聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅《こうら》の中に立て籠《こも》る。打たれる運命を眼前に控えた間際《まぎわ》でも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸《いっすん》に逃《のが》れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
 良《やや》しばらく眺めていると今度は掌がむず痒《が》ゆくなる。一刻の安きを貪《むさぼ》った後《あと》は、安き思《おもい》を、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上に逆《ぎゃく》に置いた。裏から井上孤堂《いのうえこどう》の四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した草字《そうじ》は、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
 小野さんは障《さわ》らぬ神に祟《たたり》なしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机と膝《ひざ》とは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
 封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を抛《な》げて見ないうちはどうも柔術家たる所以《ゆえん》を自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
 二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気《のんき》で羨《うらやま》しいと思う。――椿の花片《はなびら》がまた一つ落ちた。
 一輪挿《いちりんざし》を持ったまま障子を開《あ》けて椽側《えんがわ》へ出る。花は庭へ棄《す》てた。水もついでにあけた。花活《はないけ》は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。檜《ひのき》がある。塀《へい》がある。向《むこう》に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が干《ほ》してある。蛇《じゃ》の目の黒い縁《ふち》に落花《らっか》が二片《ふたひら》貼《へばり》ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
 小野さんは重い足を引き擦《ず》ってまた部屋のなかへ這入《はい》って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴《ふしあな》がすうと開《あ》いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を屈《かが》めて手を伸ばすや否や封を切った。
[#ここから1字下げ]
「拝啓|柳暗花明《りゅうあんかめい》の好時節と相成候処いよいよ御壮健|奉賀《がしたてまつり》候《そうろう》。小生も不相変《あいかわらず》頑強《がんきょう》、小夜《さよ》も息災に候えば、乍憚《はばかりながら》御休神|可被下《くださるべく》候《そうろう》。さて旧臘《きゅうろう》中一寸申上候東京表へ転住の義、其後《そのご》色々の事情にて捗《はか》どりかね候所、此程に至り諸事好都合に埓《らち》あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知|被下度《くだされたく》候《そうろう》。二十年|前《ぜん》に其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留《とうりゅう》の外は、全く故郷の消息に疎《うと》く、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住み古《ふ》るしたる住宅は隣家|蔦屋《つたや》にて譲り受け度旨《たきむね》申込《もうしこみ》有之《これあり》、其他にも相談の口はかかり候えども、此方《こちら》に取り極め申候。荷物其他|嵩張《かさば》り候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持の琴《こと》一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。故《ふる》きを棄てがたき婦女の心情御憐察|可被下《くださるべく》候《そうろう》。
「御承知の通《とおり》小夜は五年|前《ぜん》当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速《すみや》かなる事を希望致し居候。同人|行末《ゆくすえ》の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述《もうしのべず》。追て其地にて御面会の上|篤《とく》と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓《ざっとう》の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰《えら》みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層《いっそ》途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報|可致《いたすべく》候《そうろう》。まずは右当用迄|匆々《そうそう》不一」
[#ここで字下げ終わり]
 読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいた端《はじ》が青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行き留《どま》った時、やむを得ず、睛《ひとみ》を転じてロゼッチの詩集を眺《なが》めた。詩集の表紙の上に散った二片《ふたひら》の紅《くれない》も眺めた。紅に誘われて、右の角《かど》に在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日《おととい》挿した椿《つばき》は影も形もない。うつくしい未来を覗く管《くだ》が無くなった。
 小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち上《のぼ》る。一種古ぼけた黴臭《かびくさ》いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇《ちゅうちょ》する毛筋の末を引いて、細い縁《えにし》に、絶えるほどにつながるる今と昔を、面《ま》のあたりに結び合わす香《におい》である。
 半世の歴史を長き穂の心細きまで逆《さか》しまに尋ぬれば、溯《さかのぼ》るほどに暗澹《あんたん》となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ枝《え》の末に、錐《きり》の力の尖《とが》れるを幸《さいわい》と、記憶の命を突き透《とお》すは要なしと云わんよりむしろ無惨《むざん》である。ジェーナスの神は二つの顔に、後《うし》ろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。背《そびら》を過去に向けた上は、眼に映るは煕々《きき》たる前程のみである。後《うしろ》を向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日《きのうきょう》、寒い所から、寒いものが追っ懸《か》けて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖く鮮《あざ》やかなるうちに、己《おの》れを捲《ま》き込んで、一歩でも過去を遠退《とおの》けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤《ちりばめ》られて、動くかとは掛念《けねん》しながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退《の》いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫《な》でていた。ところが、昔しながらとたかを括《くく》って、過去の管《くだ》を今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。逼《せま》って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超《こ》えて、暗夜《やみよ》を照らす提灯《ちょうちん》の火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
 自然は自然を用い尽さぬ。極《きわ》まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分《はんぷん》と立たぬうちに、障子《しょうじ》から下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て妄《みだ》りに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
 小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
 小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌《あいきょう》があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文《はんもん》の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日《こんにち》まで下女の人望を繋《つな》いだのも全くこの自覚に基《もと》づく。小野さんは下女の人望をさえ妄《みだ》りに落す事を好まぬほどの人物である。
 同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事|能《あた》わずと昔《むか》しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退《の》いて不安が這入《はい》る。下女は悪《わ》るいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃《つけやきば》で不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主《いえぬし》が這入るについて、愛嬌が示談《じだん》の上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「逢《あ》おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、好《い》い。好《よ》し好し」
 友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり後《うし》ろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
 往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと体《たい》を交《か》わせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへ避《よ》ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気を換《か》えて反対へ出る。反対と反対が鉢合《はちあわ》せをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子《ふりこ》のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの悪《わ》るい野郎だと悪口《わるくち》が云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
 そこへ浅井君が這入《はい》ってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手で圧《お》し潰《つぶ》すように握って、畳の上へ抛《ほう》り出すや否や
「ええ天気だな」と胡坐《あぐら》をかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。昨日《きのう》行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は露西亜《ロシア》料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜《ロシア》料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻《さっき》だった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって緩《ゆ》っくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら緩《ゆっ》くり話そうと思うんだね。そう向うだけで一人《ひとり》ぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分|昔堅気《むかしかたぎ》だからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。一徹《いってつ》なんだ」
「近頃は家計《くらし》の方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時《なんじ》かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「旨《うま》い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
 門口《かどぐち》で分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。

 山門を入る事一歩にして、古き世の緑《みど》りが、急に左右から肩を襲う。自然石《じねんせき》の形状《かたち》乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、錯落《さくらく》と平らかに敷き詰めたる径《こみち》に落つる足音は、甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君の足音だけである。
 一条《いちじょう》の径の細く直《すぐ》なるを行き尽さざる此方《こなた》から、石に眼を添えて遥《はる》かなる向うを極《きわ》むる行き当りに、仰《あお》げば伽藍《がらん》がある。木賊葺《とくさぶき》の厚板が左右から内輪にうねって、大《だい》なる両の翼を、険《けわ》しき一本の背筋《せすじ》にあつめたる上に、今一つ小さき家根《やね》が小さき翼を伸《の》して乗っかっている。風抜《かざぬ》きか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの精舎《しょうじゃ》を、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんは杖《つえ》を停《とど》めた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり恰好《かっこう》が旨《うま》くそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる理形《フォーム》に適《かな》ってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「舟板塀《ふないたべい》趣味《しゅみ》や御神灯《ごじんとう》趣味《しゅみ》とは違うさ。夢窓国師《むそうこくし》が建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を逍遥《しょうよう》する価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も家根《やね》になって明治まで生きていれば結構だ。安直《あんちょく》な銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ」
「何が」
「何がって、この境内《けいだい》の景色《けしき》がさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ這入《はい》ると好い気持ちになるんだろう」
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池《れんち》に渡した石橋《せっきょう》の欄干《らんかん》に尻をかける。欄干の腰には大きな三階松《さんがいまつ》が三寸の厚さを透《す》かして水に臨んでいる。石には苔《こけ》の斑《ふ》が薄青く吹き出して、灰を交えた紫《むらさき》の質に深く食い込む下に、枯蓮《かれはす》の黄《き》な軸《じく》がすいすいと、去年の霜《しも》を弥生《やよい》の中に突き出している。
 宗近君は燐寸《マッチ》を出して、煙草《たばこ》を出して、しゅっと云わせた燃え残りを池の水に棄てる。
「夢窓国師はそんな悪戯《いたずら》はしなかった」と甲野さんは、※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]《あご》の先に、両手で杖《つえ》の頭《かしら》を丁寧に抑えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の真似《まね》をするが好い」
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と北京《ペキン》へ駐在する事にするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の阿爺《おやじ》ぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は我儘《わがまま》過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
 今までは真面目の上に冗談《じょうだん》の雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し後《うし》ろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま風邪《かぜ》が癒《なお》れば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と露西亜《ロシア》の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
「亜米利加《アメリカ》を見ろ、印度《インド》を見ろ、亜弗利加《アフリカ》を見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ間《ま》に殺されているんだ」
 すべてを爪弾《つまはじ》きした甲野さんは杖の先で、とんと石橋《せっきょう》を敲《たた》いて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩山《がざん》と云う坊主は一椀の托鉢《たくはつ》だけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横に寝《ね》た箸《はし》を竪《たて》にする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
 世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に颯《さっ》と開《ひら》いた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨《さが》の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹《ひんぷんらくえき》と嵐山《らんざん》に行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
 天竜寺《てんりゅうじ》の門前を左へ折れれば釈迦堂《しゃかどう》で右へ曲れば渡月橋《とげつきょう》である。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場《ステーション》の方へ旅衣《たびごろも》七日《なのか》余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。二条《にじょう》から半時《はんとき》ごとに花時を空《あだ》にするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢《たいせい》を忘れている。京ほどに女の綺羅《きら》を飾る所はない。天下の大勢も、京女《きょうおんな》の色には叶《かな》わぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
「悪《わ》るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性《セックス》の感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭味《いやみ》がない」
「どうも淡粧《あっさり》して、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。至極《しごく》御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあ善《よ》かったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから厭《いや》になっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた了見《りょうけん》を洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
 甲野さんは返事をする代りに、売店に陳《なら》べてある、抹茶茶碗《まっちゃぢゃわん》を見始めた。土を捏《こ》ねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけ[#「とぼけ」に傍点]ている。
「そんなとぼけ[#「とぼけ」に傍点]た奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて眺《なが》めている袖《そで》を、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れた片《かけ》を土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
 甲野さんは土間の敷居を跨《また》ぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの琴《こと》の主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残《むざん》な事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ追《おっ》つかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物《やっかいぶつ》だ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく敲《たた》き壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
 二人は茶碗の代を払って、停車場《ステーション》へ来る。
 浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨《さが》より二条《にじょう》に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波《たんば》へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡《かめおか》に降りた。保津川《ほづがわ》の急湍《きゅうたん》はこの駅より下《くだ》る掟《おきて》である。下るべき水は眼の前にまだ緩《ゆる》く流れて碧油《へきゆう》の趣《おもむき》をなす。岸は開いて、里の子の摘《つ》む土筆《つくし》も生える。舟子《ふなこ》は舟を渚《なぎさ》に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、舷《こべり》は尺と水を離れぬ。赤い毛布《けっと》に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の数《かず》は四人である。真っ先なるは、二間の竹竿《たけざお》、続《つ》づく二人は右側に櫂《かい》、左に立つは同じく竿である。
 ぎいぎいと櫂《かい》が鳴る。粗削《あらけず》りに平《たいら》げたる樫《かし》の頸筋《くびすじ》を、太い藤蔓《ふじづる》に捲《ま》いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節《ふし》の隆《たか》きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻《か》く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根《くびね》を抑えられた櫂が、掻《か》くごとに撓《しわ》りでもする事か、強《こわ》き項《うなじ》を真直《ますぐ》に立てたまま、藤蔓と擦《す》れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
 岸は二三度うねりを打って、音なき水を、停《とど》まる暇なきに、前へ前へと送る。重《かさ》なる水の蹙《しじま》って行く、頭《こうべ》の上には、山城《やましろ》を屏風《びょうぶ》と囲う春の山が聳《そび》えている。逼《せま》りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡《さんきょう》に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の体《たい》を透《す》かして岩と岩の逼《せま》る間を半丁の向《むこう》に見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、舷《ふなばた》から首を出した時、船ははや瀬の中に滑《すべ》り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を緩《ゆる》める。櫂《かい》は流れて舷に着く。舳《へさき》に立つは竿《さお》を横《よこた》えたままである。傾《かた》むいて矢のごとく下る船は、どどどと刻《きざ》み足に、船底に据えた尻に響く。壊《こ》われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が指《ゆびさ》す後《うし》ろを見ると、白い泡《あわ》が一町ばかり、逆《さ》か落しに噛《か》み合って、谷を洩《も》る微《かす》かな日影を万顆《ばんか》の珠《たま》と我勝《われがち》に奪い合っている。
「壮《さか》んなものだ」と宗近君は大いに御意《ぎょい》に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
 船頭は至極《しごく》冷淡である。松を抱く巌《いわ》の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、棹《さお》を操《あやつ》り去る。通る瀬はさまざまに廻《めぐ》る。廻るごとに新たなる山は当面に躍《おど》り出す。石山、松山、雑木山《ぞうきやま》と数うる遑《いとま》を行客《こうかく》に許さざる疾《と》き流れは、船を駆《か》ってまた奔湍《ほんたん》に躍り込む。
 大きな丸い岩である。苔《こけ》を畳む煩《わずら》わしさを避けて、紫《むらさき》の裸身《はだかみ》に、撃《う》ちつけて散る水沫《しぶき》を、春寒く腰から浴びて、緑り崩《くず》るる真中に、舟こそ来れと待つ。舟は矢《や》も楯《たて》も物かは。一図《いちず》にこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲《うずま》いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。削《けず》られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末《ゆくえ》である。岩に突き当って砕けるか、捲《ま》き込まれて、見えぬ彼方《かなた》にどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を呑《の》む岩の太腹に潜《もぐ》り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が揚《あ》がると共に舟はぐうと廻った。この獣奴《けだものめ》と突き離す竿の先から、岩の裾《すそ》を尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
 急灘《きゅうなん》を落ち尽すと向《むこう》から空舟《からふね》が上《のぼ》ってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命の拳《こぶし》を収めて、肩から斜めに目暗縞《めくらじま》を掠《から》めた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟を牽《ひ》いて来る。水行くほかに尺寸《せきすん》の余地だに見出《みいだ》しがたき岸辺を、石に飛び、岩に這《は》うて、穿《は》く草鞋《わらんじ》の滅《め》り込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手は塞《せ》かれて注《そそ》ぐ渦の中に指先を浸《ひた》すばかりである。うんと踏ん張る幾世《いくよ》の金剛力に、岩は自然《じねん》と擦《す》り減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱《ひきづな》をわが勢に逆《さから》わぬほどに、疾《と》く滑《すべ》らすための策《はかりごと》と云う。
「少しは穏《おだや》かになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山の遥《はる》かの上に、鉈《なた》の音が丁々《ちょうちょう》とする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏《のどぼとけ》を突き出して峰を見上げた。
「慣《な》れると何でもするもんだね」と相手も手を翳《かざ》して見る。
「あれで一日働いて若干《いくら》になるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いて見《み》ようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに駛《はし》っている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。願《ねがわ》くは船頭の棹《さお》を借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏《じょうぶつ》している時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち遣《や》った。
「そう困った日にゃ方《ほう》が付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「肝胆相照《かんたんあいて》らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものに違《ちがい》ない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
 甲野さんは黙然《もくねん》として、船の底を見詰めた。言うものは知らずと昔《むか》し老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川《ほづがわ》と肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手を敲《たた》く。
 乱れ起る岩石を左右に※[#「榮の木に代えて糸」、第3水準1-90-16]《めぐ》る流は、抱《いだ》くがごとくそと割れて、半ば碧《みど》りを透明に含む光琳波《こうりんなみ》が、早蕨《さわらび》に似たる曲線を描《えが》いて巌角《いわかど》をゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると嵐山《らんざん》どす」と長い棹《さお》を舷《こべり》のうちへ挿《さ》し込んだ船頭が云う。鳴る櫂《かい》に送られて、深い淵《ふち》を滑《すべ》るように抜け出すと、左右の岩が自《おのずか》ら開いて、舟は大悲閣《だいひかく》の下《もと》に着いた。
 二人は松と桜と京人形の群《むら》がるなかに這《は》い上がる。幕と連《つら》なる袖《そで》の下を掻《か》い潜《く》ぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
 赤松の二抱《ふたかかえ》を楯《たて》に、大堰《おおい》の波に、花の影の明かなるを誇る、橋の袂《たもと》の葭簀茶屋《よしずぢゃや》に、高島田が休んでいる。昔しの髷《まげ》を今の世にしばし許せと被《かぶ》る瓜実顔《うりざねがお》は、花に臨んで風に堪《た》えず、俯目《ふしめ》に人を避けて、名物の団子を眺《なが》めている。薄く染めた綸子《りんず》の被布《ひふ》に、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねる衣《きぬ》の色は見えぬ。ただ襟元《えりもと》より燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが琴《こと》を弾《ひ》いた女だよ。あの黒い羽織は阿爺《おやじ》に違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
 瓢箪《ひょうたん》に酔《えい》を飾る三五の癡漢《うつけもの》が、天下の高笑《たかわらい》に、腕を振って後《うし》ろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、体《たい》を斜めにえらがる人を通した。色の世界は今が真《ま》っ盛《さか》りである。

 丸顔に愁《うれい》少し、颯《さっ》と映《うつ》る襟地《えりじ》の中から薄鶯《うすうぐいす》の蘭《らん》の花が、幽《かすか》なる香《か》を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子《いとこ》はこんな女である。
 人に示すときは指を用いる。四つを掌《たなごころ》に折って、余る第二指のありたけにあれぞと指《さ》す時、指す手はただ一筋の紛《まぎ》れなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは指点《さ》す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは指点《さ》す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
 人に指点《さ》す指の、細《ほっ》そりと爪先《つまさき》に肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって焼点《しょうてん》を構成《かたちづく》る。藤尾《ふじお》の指は爪先の紅《べに》を抜け出でて縫針の尖《と》がれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは欄干《らんかん》を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
 藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目に懸《かか》りませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云う。
「父一人で忙がしいものですから、つい御無沙汰《ごぶさた》をして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「向島《むこうじま》は」
「まだどこへも行かないの」
 宅《うち》にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影が翳《さ》す。
「そんなに御用が御在《おあ》りなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
 糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
 二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く路《みち》である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側《むこうがわ》へ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、この袖《そで》は、この詩とこの歌は、鍋《なべ》、炭取の類《たぐい》ではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字を冠《かむ》らせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
「一《はじめ》さんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは上滑《うわすべり》をして前へ進む。糸子は返事をする前に顔を揚《あ》げて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
 今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子を眤《じっ》と見る。針は真逆《まさか》の用意に、なかなか瞳《ひとみ》の中《うち》には出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ絡《から》まってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。一《はじめ》さんが貰うときまれば本気に捜《さ》がしますよ」
 黐竿《もちざお》は届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
 糸子は際《きわ》どいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる捜索《さぐり》の綱を、ぷつりと切って、逆《さか》さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
 放つ矢のあたらぬはこちらの不手際《ふてぎわ》である。あたったのに手答《てごたえ》もなく装《よそお》わるるは不器量《ふきりょう》である。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇を噛《か》んだ。ここまで推《お》して来て停《とど》まるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたは私《わたし》の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬に吾《われ》を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心の中《うち》で冷笑《あざわら》って引き上げる。
 甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人《ふたり》の妹は肝胆の外廓《そとぐるわ》で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
 ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い懸《か》けられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものを取《と》っ押《つかま》える勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んで馳《か》け込んで来た。袞竜《こんりょう》の袖に隠れると云う諺《ことわざ》がある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
 小野さんは蹌々踉々《そうそうろうろう》として来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に被《き》せる従容《しょうよう》の紋付を、まだ誂《あつら》えていない。二十世紀の人は皆この紋付《もんつき》を二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。便《たよ》る未来が戈《ほこ》を逆《さかし》まにして、過去をほじり出そうとするのは情《なさ》けない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。大抵《たいてい》の嘘《うそ》は渡頭《ととう》の舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
 小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽吾《きんご》さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑気《のんき》よ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでも家《うち》の兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退《の》けたが、急に気がついて、羽二重《はぶたえ》の手巾《ハンケチ》を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
 唇の動く間から前歯の角《かど》を彩《いろ》どる金の筋がすっと外界に映《うつ》る。敵は首尾よくわが術中に陥《おちい》った。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から御音信《おたより》はないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって端書《はがき》ぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが? 御叔母《おば》さんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
 藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると顫《ふる》える。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、手巾《ハンケチ》を出して、薄い口髭《くちひげ》をちょっと撫《な》でる。幽《かす》かな香《におい》がぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の方《かた》を一《はじめ》さんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
 小野さんの手巾はちょっと勢《いきおい》を失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな奇麗《きれい》だと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「無精《ぶしょう》に似合わない事ね。何と」
「隣家《となり》の琴は御前より旨《うま》いって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪《べっぴん》だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに逢《あ》っちゃ叶《かな》わない」
「でも、あなたの事は褒《ほ》めてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪《べっぴん》だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
 藤尾は得意と軽侮の念を交《まじ》えたる眼を輝かして、すらりと首を後《うし》ろに引く。鬣《たてがみ》に比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝の菫《すみれ》のみが星のごとく可憐《かれん》の光を放つ。
 小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条《さんじょう》に蔦屋《つたや》と云う宿屋がござんすか」
 底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、縋《すが》る未来に全く吸い込まれたる人は、刹那《せつな》の戸板返《といたがえ》しにずどんと過去へ落ちた。
 追い懸けて来る過去を逃《の》がるるは雲紫《くもむらさき》に立ち騰《のぼ》る袖香炉《そでこうろ》の煙《けぶ》る影に、縹緲《ひょうびょう》の楽しみをこれぞと見極《みきわ》むるひまもなく、貪《むさ》ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶《いっさつ》に、結ばぬ夢は醒《さ》めて、逆《さか》しまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇《そうかんだ》あり、容易に青《せい》を踏む事を許さずとある。
「蔦屋《つたや》がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿《とま》ってるんですって。だから、どんな所《とこ》かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋《はたごや》じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が聴《きこ》えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家《おとなり》で美人が琴を弾《ひ》いてるのを、気楽に寝転《ねころ》んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
 小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、床《とこ》の山吹を無意味に眺《なが》めている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
 詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわね[#「いいわね」に傍点]ぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の音《ね》も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白い画《え》が出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
 家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を解《げ》しかねる。要《い》らぬ事と黙って控《ひか》えているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――廻《まわ》り椽《えん》で、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに煙《けむ》るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗な丸《まある》い山は――あの山が、青い御供《おそなえ》のように、こんもりと霞《かす》んでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を傾《かた》げる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
 女詩人《じょしじん》の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
 五重の塔がどうもする訳《わけ》はない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
 御機嫌に逆《さから》った時は、必ず人をもって詫《わび》を入れるのが世間である。女王の逆鱗《げきりん》は鍋《なべ》、釜《かま》、味噌漉《みそこし》の御供物《おくもつ》では直せない。役にも立たぬ五重の塔を霞《かすみ》のうちに腫物《はれもの》のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
 藤尾の眉《まゆ》はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気に障《さわ》ったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
 針鼠《はりねずみ》は撫《な》でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
 五重の塔を持ち出せばなお怒《おこ》られる。琴の音《ね》は自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑《けいべつ》を招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるようだ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取り除《の》けられた。女二人を調停するのは眼の前に快《こころよ》からぬ言葉の果し合を見るのが厭《いや》だからである。文錦《あやにしき》やさしき眉《まゆ》に切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。取除者《とりのけもの》を仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさく絡《からま》ってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ調子《ばつ》を合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を軽蔑《けいべつ》する料簡《りょうけん》ではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いものの頭《かしら》に耀《かがや》かず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸が隙《す》く。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
 人を呪《のろ》わば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり筋違《すじかい》に見えて、その先に井桁《いげた》があって、小米桜《こごめざくら》が擦《す》れ擦れに咲いていて、釣瓶《つるべ》が触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
 糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん擦《ず》り落ちて来る。重い雲がかさなり合って、弥生《やよい》をどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、袖垣《そでがき》のはずれに幣辛夷《してこぶし》の花が怪しい色を併《なら》べて立っている。木立に透《す》かしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れに映《うつ》る。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
 居は気を移す。藤尾の想像は空と共に濃《こまや》かになる。
「小米桜を二階の欄干《てすり》から御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の後《うし》ろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴の音《ね》がするんです」
 琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと隣家《となり》の庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりと掠《かす》める。
「ホホホホ御厭《おいや》なの――何だか暗くなって来た事。花曇りが化《ば》け出しそうね」
 そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとから直《すぐ》すいと追懸《おいか》けて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや本降《ほんぶり》になりそうだ事」
「私《わたし》失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
 糸子は立ち上がる。話しは春雨と共に崩《くず》れた。

 燐寸《マッチ》を擦《す》る事|一寸《いっすん》にして火は闇《やみ》に入る。幾段の彩錦《さいきん》を捲《めく》り終れば無地の境《さかい》をなす。春興は二人《ににん》の青年に尽きた。狐の袖無《ちゃんちゃん》を着て天下を行くものは、日記を懐《ふところ》にして百年の憂《うれい》を抱《いだ》くものと共に帰程《きてい》に上《のぼ》る。
 古き寺、古き社《やしろ》、神の森、仏の丘を掩《おお》うて、いそぐ事を解《げ》せぬ京の日はようやく暮れた。倦怠《けた》るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然《はき》とは映らぬ。瞬《またた》くも嬾《ものう》き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
 一人《いちにん》の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥《なまぐさ》き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏《まと》めたる団子《だんし》と、他の清濁を混じたる団子と、層々|相連《あいつらな》って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果《いんが》の交叉点に据えて分相応の円周を右に劃《かく》し左に劃す。怒《いかり》の中心より画《えが》き去る円は飛ぶがごとくに速《すみや》かに、恋の中心より振り来《きた》る円周は※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》の痕《あと》を空裏《くうり》に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎《かんきつ》の圜《かん》をほのめかして回《めぐ》る。縦横に、前後に、上下《しょうか》四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越《しんえつ》の客ここに舟を同じゅうす。甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君は、三春行楽《さんしゅんこうらく》の興尽きて東に帰る。孤堂《こどう》先生と小夜子《さよこ》は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で端《はし》なくも喰い違った。
 わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と他《ひと》の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破《か》けて飛ぶ事がある。あるいは発矢《はっし》と熱を曳《ひ》いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄《すさ》まじき喰い違い方が生涯《しょうがい》に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして自《おのず》からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ逢《お》うてただ別れる袖《そで》だけの縁《えにし》ならば、星深き春の夜を、名さえ寂《さ》びたる七条《しちじょう》に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢《ちょうたく》する。自然その物は小説にはならぬ。
 二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく幻《まぼろし》のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東の方《かた》に搬《はこ》び去ろうか、さらに無頓着《むとんじゃく》である。世を畏《おそ》れぬ鉄輪《てつわ》をごとりと転《まわ》す。あとは驀地《ましぐら》に闇《やみ》を衝《つ》く。離れて合うを待ち佗《わ》び顔なるを、行《ゆ》いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠《そらい》を意とせざるを、一様に束《つか》ねて、ことごとく土偶《どぐう》のごとくに遇待《もてなそ》うとする。夜《よ》こそ見えね、熾《さか》んに黒煙《くろけむり》を吐きつつある。
 眠る夜を、生けるものは、提灯《ちょうちん》の火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒《かじぼう》が下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で埋《うず》まってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
 京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束《じっぱひとからげ》に夜明までに、あかるい東京へ推《お》し出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらに解《ほご》れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛《しゃりょう》の戸をはたはたと締めて行く。忽然《こつぜん》としてプラットフォームは、在《あ》る人を掃《は》いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛《くちぶえ》が遥《はる》かの後《うし》ろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ気《げ》に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は淋《さび》しいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋《つたや》の隣家《となり》に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、家《うち》を畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは独《ひと》り言《ごと》のように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋《ずだぶくろ》を棚《たな》へ上げた腰を卸《おろ》しながら笑う。相手は半分顔を背《そむ》けて硝子越《ガラスごし》に窓の外を透《すか》して見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。轟《ごう》と云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何|哩《マイル》くらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐《あぐら》をかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。向《むこう》の棚《たな》に載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高の頂《いただき》を顫《ふる》わせている。給仕《ボーイ》が時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を眠《ねむ》っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
 汽車は轟《ごう》と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――余《あんま》りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは賞《ほ》める時の言葉なんだがな」
「千里の江陵《こうりょう》一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
 甲野さんは返事を見合せて口を緘《と》じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって轟《ごう》と走る。二人の世界はしばらく闇《やみ》の中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い夜《よ》を糸のごとく照らして動く電灯の下《もと》にあらわれて来る。
 色白く、傾く月の影に生れて小夜《さよ》と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居《すまい》に、盂蘭盆《うらぼん》の灯籠《とうろう》を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊《しょうりょう》を、東京の苧殻《おがら》で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。乗《の》し掛《かか》る怒《いかり》は、撫《な》で下《おろ》す絹しなやかに情《なさけ》の裾《すそ》に滑《すべ》り込む。
 紫に驕《おご》るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連《つら》なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長《たけなが》を顫《ふる》わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ滴《した》たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて赫《かっ》と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透《とお》って、当時《そのかみ》を裏返す折々にさえ鮮《あざや》かに煮染《にじ》んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒《はるさむ》の懐《ふところ》に暖めつつ、黒く動く一条の車に載《の》せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを抱《だ》きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑《みど》りを衝《つ》き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱《いだ》く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇《くらやみ》の遠きより切り放して、現実の前に抛《な》げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き逢《お》うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
 隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに※[#「月+咢」、第3水準1-90-51]《あご》の下に白くなる疎髯《そぜん》を握っては昔《むか》しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き籠《こも》って容易には出て来ない。漠々《ばくばく》たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々《れんれん》たるわれを、つれなく見捨て去る当時《そのかみ》に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩《ごましお》交《まじ》りの髯《ひげ》をぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳《いくつ》の時だったかな」
「学校を廃《や》めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山《あらしやま》へ連れていっていただいたでしょう。御母《おかあ》さんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子《だんご》もまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋《さんげんぢゃや》の傍《そば》で喫《た》べたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母《おっか》さんも丈夫だったがな。ああ早く亡《な》くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分|蒼《あお》い顔をしてね、そうして何だか始終《しじゅう》おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和《やさし》いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質《たち》の好い男でも、あのまま放《ほう》って置けばそれぎり、どこへどう這入《はい》ってしまうか分らない」
「本当にね」
 明かなる夢は輪を描《えが》いて胸のうちに回《めぐ》り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き刻《ぼ》りの深き記憶を離れて、咫尺《しせき》に飛び上がって来る。女はただ眸《ひとみ》を凝《こ》らして眼前に逼《せま》る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の髯《ひげ》を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで迎《むかえ》にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
 夢は再び躍《おど》る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを駛《か》ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を眠《ねむ》る。人も犬も草も木も判然《はき》と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転《まわ》りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を抱《いだ》いて眠についた。
 長い車は包む夜を押し分けて、やらじと逆《さか》う風を打つ。追い懸くる冥府《よみ》の神を、力ある尾に敲《たた》いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙《けぶ》る向うが一面に競《せ》り上がって来る。茫々《ぼうぼう》たる原野の自《おのず》から尽きず、しだいに天に逼《せま》って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼《まなこ》を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
 神の代《よ》を空に鳴く金鶏《きんけい》の、翼《つばさ》五百里なるを一時に搏《はばたき》して、漲《みな》ぎる雲を下界に披《ひら》く大虚の真中《まんなか》に、朗《ほがらか》に浮き出す万古《ばんこ》の雪は、末広になだれて、八州の野《や》を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫《そうぼう》の裡《うち》に、腰から下を埋《うず》めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫《むらさき》の襞《ひだ》と藍《あい》の襞とを斜《なな》めに畳んで、白き地《じ》を不規則なる幾条《いくすじ》に裂いて行く。見上ぐる人は這《は》う雲の影を沿うて、蒼暗《あおぐら》き裾野《すその》から、藍、紫の深きを稲妻《いなずま》に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然《かつぜん》として眼が醒《さ》める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘《いざな》う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑《すべ》り下りながら、窓をはたりと卸《おろ》す。広い裾野《すその》から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝《らくだ》の毛布《けっと》を頭から被《かむ》ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝《ね》なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「叡山《えいざん》よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変|軽蔑《けいべつ》するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退《の》けて動いた」と宗近君は頭陀袋《ずだぶくろ》を棚《たな》から取り卸《おろ》す。室《へや》のなかはざわついてくる。明かるい世界へ馳《か》け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
 窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯《そぜん》を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干《そこばく》の銀貨を握って、へぎ[#「へぎ」に傍点]折《おり》を取る左と引《ひ》き換《かえ》に出す。御茶は部屋のなかで娘が注《つ》いでいる。
「どうだね」と折の蓋《ふた》を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋《ながいも》の白茶《しらちゃ》に寝転んでいる傍《かたわ》らに、一片《ひときれ》の玉子焼が黄色く圧《お》し潰《つぶ》されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は箸《はし》を執《と》らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた箸《はし》を眺《なが》めながら、ぐっと飲む。
「もう直《じき》ですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋《ながいも》が髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗《きれい》に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入《はい》る。
「小野さんは宿を捜《さ》がして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯《めし》と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣《よねざわがすり》の襟《えり》を掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄《てさげかばん》を跨《また》いだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪《けつま》ずくと危ない」と注意した。
 硝子戸《ガラスど》を押し開《あ》けて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直《まっすぐ》に抜ける気で、中途まで来た時、宗近君が後《うし》ろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過《こわす》ぎてね。――阿爺《おとっさん》のように年を取ると、どうも硬《こわ》いのは胸に痞《つか》えていけないよ」
「御茶でも上がったら……注《つ》ぎましょうか」
 青年は無言のまま食堂へ抜けた。
 日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方《じんじっぽう》に飛び交《か》わす小世界の、普《あま》ねく天涯《てんがい》を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭《いと》わず植えつけし蚕《かいこ》の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半《よわ》を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は掃《は》き落されて、大空の皮を奇麗に剥《は》ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち上《のぼ》る窓の中《うち》に、四人の小宇宙は偶《ぐう》を作って、ここぞと互に擦《す》れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布《たくふ》を挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表《メヌー》を眺《なが》めながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕《ゆうべ》京都の停車場《ステーション》では逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで膏《あぶら》ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺《フォーク》を逆《さかしま》にして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々|情《なさ》けなさそうに白い膏味《あぶらみ》を頬張《ほおば》る。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「猶太人《ユデアじん》は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
「猶太人《ユデアじん》はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕《ボーイ》紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を外《はず》してしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想《けそう》して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で顎《あご》を支《ささ》えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に据《す》えたままぼんやり向うを見ている。
「蜜柑《みかん》が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と毫《ごう》も心配にならない気色《けしき》で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶《あいさつ》も聞く料簡《りょうけん》はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目《まじめ》に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児《ねんね》だね。しかし兄思いだよ。狐の袖無《ちゃんちゃん》を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突《ひじつき》でも造《こしら》えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
 肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に拡《ひろ》げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに擦《す》れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日《あす》の世界を擁して新橋の停車場《ステーション》に着く。
「さっき馳《か》けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
 四個の小世界は、停車場《ステーション》に突き当って、しばらく、ばらばらとなる。

 一本の浅葱桜《あさぎざくら》が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ椽《えん》は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢《ながひばち》に手取形《てとりがた》の鉄瓶《てつびん》を沸《たぎ》らして前には絞《しぼ》り羽二重《はぶたえ》の座布団《ざぶとん》を敷く。布団の上には甲野《こうの》の母が品《ひん》よく座《すわ》っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、疳《かん》の筋《すじ》が裏を通って額へ突き抜けているらしい上部《うわべ》を、浅黒く膚理《きめ》の細かい皮が包んで、外見だけは至極《しごく》穏やかである。――針を海綿に蔵《かく》して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬《こうやく》を貼《は》って創口《きずぐち》を快よく慰めよ。出来得べくんば唇《くちびる》を血の出る局所に接《つ》けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を露《あら》わすものは亡《ほろ》ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
 静かな椽に足音がする。今|卸《おろ》したかと思われるほどの白足袋《しろたび》を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72]《ふき》の椽に引き擦るを軽く蹴返《けかえ》しながら、障子《しょうじ》をすうと開ける。
 居住《いずまい》をそのままの母は、濃い眉《まゆ》を半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入《おはいり》」と云う。
 藤尾《ふじお》は無言で後《あと》を締める。母の向《むこう》に火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶《てつびん》はしきりに鳴る。
 母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目《ふしめ》に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
 口多き時に真《まこと》少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は逝《ゆ》きつつある。
 藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
 親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥《いちべつ》に籠《こも》る。熱に堪《た》えざる時は骨を露《あら》わす。
「ふん」
 長煙管《ながぎせる》に煙草《たばこ》の殻を丁《ちょう》とはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、彼人《あのひと》の料簡《りょうけん》ばかりは御母《おっか》さんにも分らないね」
 雲井の煙は会釈《えしゃく》なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても同《おんな》じ事ですね」
「同じ事さ。生涯《しょうがい》あれなんだよ」
 御母《おっか》さんの疳《かん》の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「家《うち》を襲《つ》ぐのがあんなに厭《いや》なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪《にく》いんだよ。あんな事を云って私達《わたしたち》に当付《あてつ》けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日《きょう》までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮《に》え切らないっちゃありゃしない。彼人《あのひと》の顔を見るたんびに阿母《おっかさん》は疳癪《かんしゃく》が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知《しら》を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
 藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕《はら》む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多《めった》にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃《およ》しなさい、阿母《おっか》さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉《と》じ籠《こも》って寝転んでるしさ。――そうして他人《ひと》には財産を藤尾にやって自分は流浪《るろう》するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「宗近《むねちか》の阿爺《おとっさん》の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質《たち》ですね。それより早く糸子《いとこ》さんでも貰《もら》ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡《りょうけん》はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
 母は鳴る鉄瓶《てつびん》を卸《おろ》して、炭取を取り上げた。隙間《すきま》なく渋《しぶ》の洩《も》れた劈痕焼《ひびやき》に、二筋三筋|藍《あい》を流す波を描《えが》いて、真白《ましろ》な桜を気ままに散らした、薩摩《さつま》の急須《きゅうす》の中には、緑りを細く綯《よ》り込んだ宇治《うじ》の葉が、午《ひる》の湯に腐《ふ》やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は疾《と》く抜け出した香《かおり》のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を敲《たた》くほどは、さほどとも思えぬが、縁《ふち》に近くようやく色を増して、濃き水は泡《あわ》を面《おもて》に片寄せて動かずなる。
 母は掻《か》き馴《な》らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭《さくらずみ》の白き残骸《なきがら》の完《まった》きを毀《こぼ》ちて、心《しん》に潜む赤きものを片寄せる。温《ぬく》もる穴の崩《くず》れたる中には、黒く輪切の正しきを択《えら》んで、ぴちぴちと活《い》ける。――室内の春光は飽《あ》くまでも二人《ふたり》の母子《ぼし》に穏かである。
 この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑《さいぎ》不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴《かんかそきん》の春を司《つかさ》どる人の歌めく天《あめ》が下《した》に住まずして、半滴《はんてき》の気韻《きいん》だに帯びざる野卑の言語を臚列《ろれつ》するとき、毫端《ごうたん》に泥を含んで双手に筆を運《めぐ》らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須《きゅうす》と、佐倉の切り炭を描《えが》くは瞬時の閑《かん》を偸《ぬす》んで、一弾指頭《いちだんしとう》に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔《むか》しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉《うれ》しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切《せつ》なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、一《はじめ》もよっぽど剽軽者《ひょうきんもの》だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
 厩《うまや》と鳥屋《とや》といっしょにあった。牝鶏《めんどり》の馬を評する語に、――あれは鶏鳴《とき》をつくる事も、鶏卵《たまご》を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通《なみ》のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
 意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は滑《なめ》らかな頬《ほお》に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の鉄砲玉は鉛を鎔《と》かして鋳《い》る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は飽《あ》くまでも真面目《まじめ》である。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
 娘の笑は、端《はし》なくも母の疑問を起す。子を知るは親に若《し》かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども唐《から》、天竺《てんじく》である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
 母は鋭どき眉《まゆ》の下から、娘を屹《きっ》と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵《したごしらえ》と見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。筍《たけのこ》を輪切りにすると、こんな風になる。張《はり》のある眉《まゆ》に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお籠《こも》る何物かがちょっと閃《はため》いてすぐ消えた。母は相槌《あいづち》を打つ。
「あんな見込のない人は、私《わたし》も好かない」
 趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶《かじ》の頭《かみ》はかん[#「かん」に傍点]と打ち、相槌はとん[#「とん」に傍点]と打つ。されども打たるるは同じ剣《つるぎ》である。
「いっそ、ここで、判然《はっきり》断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺《おとっさん》が、あの金時計を一《はじめ》にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具《おもちゃ》にして、赤い珠《たま》ばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって繰《く》っ着《つ》いて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談《じょうだん》半分に皆《みんな》の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに謎《なぞ》だと思ってるんですか」
「宗近の阿爺《おとっさん》の口占《くちうら》ではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
 藤尾は鋭どい一句を長火鉢の角《かど》に敲《たた》きつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
 鎖の先に燃える柘榴石《ガーネット》は、蒔絵《まきえ》の蘆雁《ろがん》を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。朧《おぼろ》とも化けぬ浅葱桜《あさぎざくら》が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今|少時《しばし》と護《まも》る椽《えん》に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面《やさおもて》の影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子《しょうじ》のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
 同時に豊かな灯《ひ》が宗近家の座敷に点《とも》る。静かなる夜を陽に返す洋灯《ランプ》の笠に白き光りをゆかしく罩《こ》めて、唐草《からくさ》を一面に高く敲《たた》き出した白銅の油壺《あぶらつぼ》が晴がましくも宵《よい》に曇らぬ色を誇る。灯火《ともしび》の照らす限りは顔ごとに賑《にぎ》やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火《ともしび》の周囲《まわり》に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好《かっこう》と思う。
「それじゃ相輪※[#「木+棠」、第3水準1-86-14]《そうりんとう》も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた顎《あご》はやむを得ず二重《ふたえ》に折れている。頭はだいぶ禿《は》げかかった。これを時々|撫《な》でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪※[#「木+棠」、第3水準1-86-14]た何ですか」と宗近君は阿爺《おやじ》の前で変則の胡坐《あぐら》をかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山《えいざん》へ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野《こうの》さん」
 甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の襟《えり》を正しく坐っている。甲野さんが問い懸《か》けられた時、※[#「單+展」、第4水準2-4-51]然《にこやか》な糸子の顔は揺《うご》いた。
「相輪※[#「木+棠」、第3水準1-86-14]はなかったようだね」と甲野さんは手を膝《ひざ》の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「阿爺《おとっさん》何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭《わかさ》の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談《じょうだん》さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼《ふたえまぶた》の波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行《ある》くばかりで飛脚《ひきゃく》同然だからいけない。――叡山には東塔《とうとう》、西塔《さいとう》、横川《よかわ》とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火《ともしび》は明かに揺れる。糸子は袖《そで》を口へ当てて、崩《くず》しかかった笑顔の収まり際《ぎわ》に頭《つむり》を上げながら、眸《ひとみ》を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略《さりゃく》はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「御叔父《おじ》さん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり延暦寺《えんりゃくじ》の区域だね。広い山の中に、あすこに一《ひ》と塊《かた》まり、ここに一と塊まりと坊が集《かた》まっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「東《とう》は修羅《しゅら》、西《さい》は都に近ければ横川《よかわ》の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番|淋《さび》しい、学問でもするに好い所となっている。――今話した相輪※[#「木+棠」、第3水準1-86-14]《そうりんとう》から五十丁も這入《はい》らなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船弁慶《ふなべんけい》にもあるだろう。――かように候《そうろう》ものは、西塔《さいとう》の傍《かたわら》に住居《すまい》する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺《おとっ》さん叡山《えいざん》の総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「開基《かいき》かい。開基は伝教大師《でんぎょうだいし》さ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体|昔《むか》しの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
 甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は御前《おまい》、叡山の麓《ふもと》で生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う棒杭《ぼうぐい》が坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
 観ずるものは見ず。昔しの人は想《そう》こそ無上《むじょう》なれと説いた。逝《ゆ》く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今|載《の》せて杳然《ようぜん》と去るを思わぬが世の常である。堂に法華《ほっけ》と云い、石に仏足《ぶっそく》と云い、※[#「木+棠」、第3水準1-86-14]《とう》に相輪《そうりん》と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を記《き》して吾事《わがこと》畢《おわ》ると思うは屍《しかばね》を抱《いだ》いて活ける人を髣髴《ほうふつ》するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上《たいじょう》は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山《えいざん》に登って叡山を知らぬはこの故である。
 過去は死んでいる。大法鼓《だいほうこ》を鳴らし、大法螺《だいほうら》を吹き、大法幢《だいほうとう》を樹《た》てて王城の鬼門を護《まも》りし昔《むか》しは知らず、中堂に仏眠りて天蓋《てんがい》に蜘蛛《くも》の糸引く古伽藍《ふるがらん》を、今《いま》さらのように桓武《かんむ》天皇の御宇《ぎょう》から堀り起して、無用の詮議《せんぎ》に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人《ひまじん》の所作《しょさ》である。現在は刻《こく》をきざんで吾《われ》を待つ。有為《うい》の天下は眼前に落ち来《きた》る。双の腕《かいな》は風を截《き》って乾坤《けんこん》に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
 ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山|一刹《いっさつ》の指揮によって、夜来《やらい》、日来《にちらい》に面目を新たにするものじゃと思い籠《こ》めたように、※[#「女+尾」、第3水準1-15-81]々《びび》として叡山を説く。説くは固《もと》より青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を択《えら》んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅沢《ぜいたく》になって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
 宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外|真面目《まじめ》である。
「阿爺《おとっさん》叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦《そば》を食いに行くそうですよ」
「アハハハ真逆《まさか》」
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら[#「のらくら」に傍点]坊主だろう」
「すると僕らはのらくら[#「のらくら」に傍点]書生かな」
「御前達はのらくら[#「のらくら」に傍点]以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「到底《とても》のらくら[#「のらくら」に傍点]じゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹を競《せ》り出して笑った。洋灯《ランプ》の蓋《かさ》が喫驚《びっくり》するくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧侶《そうりょ》にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは一乗止観院《いちじょうしかんいん》と云って、延暦寺となったのはだいぶ後《あと》の事だ。その時分から妙な行《ぎょう》があって、十二年間山へ籠《こも》り切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見《りょうけん》かな」
と宗近君が今度は独語《ひとりごと》のように云う。
「修業するのさ。御前達もそうのらくら[#「のらくら」に傍点]しないでちとそんな真似《まね》でもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に背《そむ》く訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ籠《こも》ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
 一座はどっと噴《ふ》き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を逆《さか》に撫でる。垂れ懸った頬の肉が顫《ふる》え落ちそうだ。糸子は俯向《うつむ》いて声を殺したため二重瞼《ふたえまぶた》が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫《おっくう》だ。――欽吾《きんご》さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
 いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも籠《こも》る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母《おっか》さんが心配するだろう」
 甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人《いちにん》もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然《びょうぜん》として天地の間《あいだ》に懸《かか》っている。世界滅却の日をただ一人《ひとり》生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
 敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「一《はじめ》にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
 老人は自分の心で、わが母の心を推《すい》している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら[#「のらくら」に傍点]以上だからでしょう」
「アハハハハ」
 今夕《こんせき》の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。

 真葛《まくず》が原《はら》に女郎花《おみなえし》が咲いた。すらすらと薄《すすき》を抜けて、悔《くい》ある高き身に、秋風を品《ひん》よく避《よ》けて通す心細さを、秋は時雨《しぐれ》て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜《しも》に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕《あさゆう》に頼み少なく繋《つ》なぐ。冬は五年の長きを厭《いと》わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧《まずしさ》を知らぬ春の天下に紛《まぎ》れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴《ふうき》に色づくを、ひそかなる黄を、一本《ひともと》の細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭く憚《はば》かりの呼吸《いき》を吹くようである。
 今までは珠《たま》よりも鮮《あざ》やかなる夢を抱《いだ》いていた。真黒闇《まくらやみ》に据《す》えた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気に懸《か》ける暇《いとま》もなかった。懐《ふところ》に抱く珠の光りを夜《よ》に抜いて、二百里の道を遥々《はるばる》と闇の袋より取り出した時、珠は現実の明海《あかるみ》に幾分か往昔《そのかみ》の輝きを失った。
 小夜子《さよこ》は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔てて逢《あ》う瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬が吠《ほ》える。自《みず》からも、わが来《く》る所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷に蔵《かく》してなおさらに疑《うたがい》を路上に受くるような気がする。
 過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫《ひとしずく》の油は容易に油壺《あぶらつぼ》の中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。
 自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自《てんで》に働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意に描《えが》く。小夜子の世界は新橋の停車場《ステーション》へぶつかった時、劈痕《ひび》が入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
 小野さんも同じ事である。打ち遣《や》った過去は、夢の塵《ちり》をむくむくと掻《か》き分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜《ごみため》から出す。おやと思う間《ま》に、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、生息《いき》の根を留《と》めて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなく向《むこう》で吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛《きまぐれ》の時節を誤って、暖たかき陽炎《かげろう》のちらつくなかに甦《よみが》えるのは情《なさ》けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれれば労《いたわ》らねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来の袖《そで》に隠れて見た。紫《むらさき》の匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を据《す》えかける途端《とたん》に小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
「阿父《おとっさん》は」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日《あした》より、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、蒸《む》れやすき髪に櫛《くし》の歯を入れる暇もない。不断着の綿入《めんいり》さえ見すぼらしく詩人の眼に映《うつ》る。――粧《よそおい》は鏡に向って凝《こ》らす、玻璃瓶裏《はりへいり》に薔薇《ばら》の香《か》を浮かして、軽く雲鬟《うんかん》を浸《ひた》し去る時、琥珀《こはく》の櫛は条々《じょうじょう》の翠《みどり》を解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
「御忙《おいそが》しいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、昨日《きのう》も一昨日《おととい》も会がありまして……」
 日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ己《おの》れよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向《うつむ》いて、膝《ひざ》に載《の》せた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾《ふじお》の指輪とは無論比較にはならぬ。
 小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井《てんじょう》の白茶けた板の、二た所まで節穴《ふしあな》の歴然《れっき》と見える上、雨漏《あまもり》の染《し》みを侵《おか》して、ここかしこと蜘蛛《くも》の囲《い》を欺《あざむ》く煤《すす》がかたまって黒く釣りを懸《か》けている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸《すぎばし》が一本横に貫ぬいて、長い方の端《はじ》が、思うほど下に曲がっているのは、立ち退《の》いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢《ひょうのう》でもぶら下げたものだろう。次の間《ま》を立て切る二枚の唐紙《からかみ》は、洋紙に箔《はく》を置いて英吉利《イギリス》めいた葵《あおい》の幾何《きか》模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしい縁《ふち》の黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬく椽《えん》に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上《ちゃけんじょう》ほどもない。丈《じょう》に足らぬ檜《ひのき》が春に用なき、去年の葉を硬《かた》く尖《とが》らして、瘠《や》せこけて立つ後《うし》ろは、腰高塀《こしだかべい》に隣家《となり》の話が手に取るように聞える。
 家は小野さんが孤堂《こどう》先生のために周旋したに相違ない。しかし極《きわ》めて下卑《げび》ている。小野さんは心のうちに厭《いや》な住居《すまい》だと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣《そでがき》に辛夷《こぶし》を添わせて、松苔《まつごけ》を葉蘭《はらん》の影に畳む上に、切り立ての手拭《てぬぐい》が春風に揺《ふ》らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「御蔭《おかげ》さまで、好い家《うち》が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら情《なさ》けない。ある人に奴鰻《やっこうなぎ》を奢《おご》ったら、御蔭様で始めて旨《うま》い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑《けいべつ》したそうである。
 いじらしい[#「いじらしい」に傍点]のと見縊《みくび》るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしい[#「いじらしい」に傍点]ところがあるとは気がつかなかった。紫が祟《たた》ったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好い家《うち》でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好《かっこう》なのがなくって……」
と云い懸《か》けると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇《けち》な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
 細い面《おもて》をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣《くるめがすり》は背広に変っている。五分刈《ごぶがり》は光沢《つや》のある毛に変っている。――髭《ひげ》は一躍して紳士の域に上《のぼ》る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。襟《えり》は卸《おろ》し立てである。飾りには留針《ピン》さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った品《ひん》の好い胴衣《チョッキ》の隠袋《かくし》には――恩賜の時計が這入《はい》っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
 五年の間|一日一夜《ひとひひとよ》も懐《ふところ》に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東《にしひがし》長短の袂《たもと》を分かって、離愁《りしゅう》を鎖《とざ》す暮雲《ぼうん》に相思《そうし》の関《かん》を塞《せ》かれては、逢《あ》う事の疎《うと》くなりまさるこの年月《としつき》を、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
 小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気《けなげ》に生い立った阿蒙《あもう》の変りかたではない。色の褪《さ》めた過去を逆《さか》に捩《ね》じ伏せて、目醒《めざま》しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に拵《こし》らえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分が恨《うら》めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
 新橋へは迎《むかえ》に来てくれた。車を傭《やと》って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛《かたつむり》親子して寝る庵《いおり》を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様《さよう》に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
 プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。小《ち》さい手提《てさげ》の荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛《ひざかけ》といっしょに先へ行った、刻《きざ》み足の後《うし》ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々《はるばる》と来た二人を案内するためではなく、時候|後《おく》れの親子を追い越して馳《か》け抜けるためのように見える。割符《わりふ》とは瓜《うり》二つを取ってつけて較《くら》べるための証拠《しるし》である。天に懸《かか》る日よりも貴《とうと》しと護《まも》るわが夢を、五年《いつとせ》の長き香洩《かも》る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退《の》いている。握る割符は通用しない。
 始めは穴を出でて眩《まばゆ》き故と思う。少し慣《な》れたらばと、逝《ゆ》く日を杖《つえ》に、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
 やさしく咽喉《のど》に滑《す》べり込む長い顎《あご》を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を眺《なが》めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る髭《ひげ》を見た。変る髪の風《ふう》と変る装《よそおい》とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
 小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の綯《より》を逆《ぎゃく》に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山《あらしやま》へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山《あらしやま》は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
 花を看《み》る人は星月夜のごとく夥《おびただ》しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父《おとっさん》とですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか情《なさ》けない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣《だいひかく》の温泉などは立派に普請《ふしん》が出来て……」
「そうですか」
「小督《こごう》の局《つぼね》の墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
「彼所《あすこ》いらは皆《みんな》掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
「毎年《まいとし》俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
 近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓《ざっとう》しませんでしたね」
 小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向《まむき》に返る。金縁の眼鏡《めがね》と薄黒い口髭《くちひげ》がすぐ眸《ひとみ》に映《うつ》る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の緒《いとくち》の、するすると抜け出しそうな咽喉《のど》を抑《おさ》えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて角《かど》を曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。品《ひん》のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終《しじゅう》突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは歳《とし》ばかりで、いたずらに育った縞柄《しまがら》と、用い古るした琴《こと》が恨《うら》めしい。琴は蔽《おい》のまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
 小夜子は何と答えていいか分らない。膝《ひざ》に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶《みみたぶ》が、行儀よく、鬢《びん》の末を潜《くぐ》り抜けて、頬《ほお》と頸《くび》の続目《つぎめ》が、暈《ぼか》したように曲線を陰に曳《ひ》いて去る。見事な画《え》である。惜しい事に真向《まむき》に座《すわ》った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退《ひ》き具合、これほどの光線《ひ》に、これほどの色の付き具合は滅多《めった》に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵《かかと》を、地に滅《め》り込むほどに回《めぐ》らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向《まむき》に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻《ひるが》える袖《そで》の香《か》が、濃き紫《むらさき》の眉間《みけん》を掠《かす》めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広《せびろ》の胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ宜《よろ》しく」
「あの……」と口籠《くちごも》っている。
 相手は腰を浮かしながら、あの[#「あの」に傍点]のあとを待ち兼ねる。早くと急《せ》き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
 小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し悪《にく》くなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道《もぎどう》に離れて行く。未練も会釈《えしゃく》もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然《もうぜん》として、椽《えん》に近く坐った。
 降らんとして降り損《そこ》ねた空の奥から幽《かす》かな春の光りが、淡き雲に遮《さえ》ぎられながら一面に照り渡る。長閑《のど》かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶《うっとう》しい。どこやらで琴の音《ね》がする。わが弾《ひ》くべきは塵《ちり》も払わず、更紗《さらさ》の小包を二つ並べた間に、袋のままで淋《さび》しく壁に持たれている。いつ欝金《うこん》の掩《おい》を除《の》ける事やら。あの曲はだいぶ熟《な》れた手に違ない。片々に抑えて片々に弾《はじ》く爪の、安らかに幾関《いくせき》の柱《じ》を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐《かいがい》しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日《きのう》のように思う。ちらちらに昼の蛍《ほたる》と竹垣に滴《したた》る連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19]《れんぎょう》に、朝から降って退屈だと阿父様《とうさま》がおっしゃる。繻子《しゅす》の袖口は手頸《てくび》に滑《すべ》りやすい。絹糸を細長く目に貫《ぬ》いたまま、針差の紅《くれない》をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、鮮《あざや》かに眼を醒《さ》ませと、へ[#「へ」に傍点]の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か撥《は》ねた。曲はたしか小督《こごう》であった。狂う指の、憂《う》き昼を、くちゃくちゃに揉《も》みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、琴《こと》の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好《すき》な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇《やみ》を破る烏《からす》の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴《ピアノ》でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父《とうさま》は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日《きょう》を明日《あす》と、その日に数《はか》る命は、文《あや》も理《め》も危《あやう》い。……
 格子《こうし》ががらりと開《あ》く。古《いにしえ》の人は帰った。
「今帰ったよ。どうも苛《ひど》い埃《ほこり》でね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は厭《いや》な所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で足袋《たび》をはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、提《さ》げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。座布団《ざぶとん》を買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目に逢《あ》った」
「おやおや」と気の毒そうに微笑《ほほえ》んだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、御蔭《おかげ》で大変遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈《はちじょう》まがいの黄な縞《しま》を取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
「阿父《おとっさん》も敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――価《ね》が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗り損《そく》なってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々《いまいま》しいから帰りには歩いて来た」
「御草臥《おくたびれ》なすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で髯《ひげ》も何も埃《ほこり》だらけになっちまった。こら」と右手《めて》の指を四本|并《なら》べて櫛《くし》の代りに顎《あご》の下を梳《す》くと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に御這入《おはい》んなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分|苛《ひど》くってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と廂《ひさし》の外を下から覗《のぞ》いて見る。空は曇る心持ちを透《す》かして春の日があやふやに流れている。琴の音《ね》がまだ聴《きこ》える。
「おや琴を弾いているね。――なかなか旨《うま》い。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ阿父《おとっさん》には分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような烈《はげ》しい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
 時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に笑《えみ》を浮べて見せる。老人は世に疎《うと》いわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談《じょうだん》を……」
 娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
「阿父様《おとうさま》」
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で逢《あ》った時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
 娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
 後《あと》の句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
 同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車《みずぐるま》を踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が欝《ふさ》ぐものでね。今日なぞは阿父《おとっさん》などにもよくない天気だ」
 気が欝《ふさ》ぐのは秋である。餅《もち》と知って、酒の咎《とが》だと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっと琴《こと》でも弾《ひ》いちゃどうだい。気晴《きばらし》に」
 娘は浮かぬ顔を、愛嬌《あいきょう》に傾けて、床の間を見る。軸《じく》は空《むな》しく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、竪《たて》に截《き》って、欝金《うこん》の蔽《おい》が春を隠さず明らかである。
「まあ廃《よ》しましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。近々《きんきん》博士論文を出すんだそうで……」
 小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の己《おの》れには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問に凝《こ》ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なに緩《ゆっ》くりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日《いちんち》都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を利《き》かなくっちゃいけない」
 口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父《おとっさん》が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜《おさい》はいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日《あした》くるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
 小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。

 謎《なぞ》の女は宗近《むねちか》家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団《たどん》が水晶と光る。禅家では柳は緑花は紅《くれない》と云う。あるいは雀はちゅちゅで烏《からす》はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を鍋《なべ》の中へ入れて、方寸《ほうすん》の杉箸《すぎばし》に交《ま》ぜ繰り返す。芋をもって自《みず》からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石《ダイヤモンド》のようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所《でどころ》が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽《かぐら》の面《めん》には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
 真率なる快活なる宗近家の大和尚《だいおしょう》は、かく物騒な女が天《あめ》が下《した》に生を享《う》けて、しきりに鍋の底を攪《か》き廻しているとは思いも寄らぬ。唐木《からき》の机に唐刻の法帖《ほうじょう》を乗せて、厚い坐布団の上に、信濃《しなの》の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から鉢《はち》の木《き》を謡《うた》っている。謎の女はしだいに近づいてくる。
 悲劇マクベスの妖婆《ようば》は鍋《なべ》の中に天下の雑物《ぞうもつ》を攫《さら》い込んだ。石の影に三十日《みそか》の毒を人知れず吹く夜《よる》の蟇《ひき》と、燃ゆる腹を黒き背《せ》に蔵《かく》す蠑※[#「虫+原」、第3水準1-91-60]《いもり》の胆《きも》と、蛇の眼《まなこ》と蝙蝠《かわほり》の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果てて尖《とが》れる爪は、世を咀《のろ》う幾代《いくよ》の錆《さび》に瘠《や》せ尽くしたる鉄《くろがね》の火箸《ひばし》を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を泡《あわ》と共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
 それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間《まっぴるま》である。鍋の底からは愛嬌《あいきょう》が湧《わ》いて出る。漾《ただよ》うは笑の波だと云う。攪《か》き淆《ま》ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが品《ひん》よく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛《のうがかり》である。大和尚《だいおしょう》の怖《こわ》がらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖《おあったか》になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな掌《てのひら》を出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「その後《のち》は……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人《ぶにん》だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰《ごぶさた》になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ後《あと》をつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
 黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々|欽吾《きんご》や藤尾《ふじお》が出まして、御厄介《ごやっかい》にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
 頭はここでようやく上がる。阿父《おとっさん》はほっと気息《いき》をつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく暖《あった》かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど盛《さかり》でしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日|前《ぜん》がちょうど観頃《みごろ》でございましたが、一昨日《いっさくじつ》の風で、だいぶ傷《いた》められまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜《あさぎざくら》。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは凄《すご》いような心持が致します」
「そうですか、アハハハハ。荒川《あらかわ》には緋桜《ひざくら》と云うのがあるが、浅葱桜《あさぎざくら》は珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好事家《こうずか》に云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も一《はじめ》が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気《のんき》なものでアハハハハ。――どうです粗菓《そか》だが一つ御撮《おつま》みなさい。岐阜《ぎふ》の柿羊羹《かきようかん》」
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、旨《うま》いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は箸《はし》を上げて皿の中から剥《は》ぎ取った羊羹の一片《ひときれ》を手に受けて、独《ひと》りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野《こうの》の母は切り出した。
「せんだって中《じゅう》は欽吾《きんご》がまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭《おかげ》様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者《わがままもの》でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友《ほうゆう》と申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合《つきあい》が出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だか欝《ふさ》いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家《うち》にさえいるとあなた、妹《いもと》にばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊《さっぱり》してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人《あれ》の病気のせいだから、今さら愚癡《ぐち》をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目《まじめ》に答えたが、ついでに灰吹《はいふき》をぽんと敲《たた》いて、銀の延打《のべうち》の煙管《きせる》を畳の上にころりと落す。雁首《がんくび》から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだって家《うち》へ見えた時などは皆《みんな》と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細《しさい》らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
「彼人《あれ》の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
 謎《なぞ》の女は自分の思う事を他《ひと》に云わせる。手を下《くだ》しては落度になる。向うで滑《すべ》って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海《ぬかるみ》を知らぬ間《ま》に用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮《あけくれ》申すのでございますが――どう在《あ》っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で亡《な》くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日《いちじつ》も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から撥《は》ねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母《おっかさん》だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人|背負《しょ》い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳《いくつ》になっても心配は絶えませんね」
「此方《こちら》様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶《つれあい》に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母《おっかさん》私《わたし》はこんな身体《からだ》で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に聟《むこ》を貰って、阿母《おっか》さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
 謎の女は和尚《おしょう》をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀《したん》の蓋《ふた》を丁寧に被《かぶ》せる。煙管《きせる》は転がった。
「なるほど」
 和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して生《うみ》の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を利《き》きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
 和尚は手提《てさげ》の煙草盆の浅い抽出《ひきだし》から欝金木綿《うこんもめん》の布巾《ふきん》を取り出して、鯨《くじら》の蔓《つる》を鄭重《ていちょう》に拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い悪《にく》ければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に障《さわ》らないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ後《あと》が大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、疳《かん》が高くなってちゃあ」
「まるで腫物《はれもの》へ障《さわ》るようで……」
「ふうん」と和尚《おしょう》は腕組を始めた。裄《ゆき》が短かいので太い肘《ひじ》が無作法《ぶさほう》に見える。
 謎《なぞ》の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言《しつげん》と遽色《きょしょく》である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を揃《そろ》えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重《ていちょう》なのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人《あれ》が断然|家《うち》を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
「聟《むこ》かね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
「左様《さよう》さね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳《いくつ》ですい」
「もう、明けて四《し》になります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた掌《てのひら》を下から覗《のぞ》き込むようにする。
「いえもう、身体《なり》ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
 話は放《ほう》って置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、一《はじめ》さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気《のんき》な女だと覚《おぼ》し召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実は私《わたし》の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――一《はじめ》も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日《きょうあす》と云う訳にも行かないですが、晩《おそ》かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あの方《かた》なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母《おっかさん》の御考は」
「あの通《とおり》行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり叶《かな》ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人《あれ》に困りますので。一さんは宗近家を御襲《おつ》ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父《おとっさん》がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば亡《な》くなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶《つれあい》さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜《よろ》しい――のでございますが」
 謎の女の云う事はしだいに湿気《しっけ》を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。辛《かろ》うじて謎の女の謎をここまで叙し来《きた》った時、筆は、一歩も前へ進む事が厭《いや》だと云う。日を作り夜を作り、海と陸《おか》とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
 日のあたる別世界には二人の兄妹《きょうだい》が活動する。六畳の中二階《ちゅうにかい》の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽《しがらき》の鉢《はち》に、蟠《わだか》まる根を盛りあげて、くの字の影を椽《えん》に伏せる。一間《いっけん》の唐紙《からかみ》は白地に秦漢瓦鐺《しんかんがとう》の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の床《とこ》は、軸を嫌って、籠花活《かごはないけ》に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
 糸子は床の間に縫物の五色を、彩《あや》と乱して、糸屑《いとくず》のこぼるるほどの抽出《ひきだし》を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方《ゆくえ》は、一針ごとに春を刻《きざ》む幽《かす》かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
 腹這《はらばい》は弥生《やよい》の姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指《ものさし》の先でしきりに敷居を敲《たた》いている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで余《あんま》り儲《もう》かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父《おとっさん》が苔盛園《たいせいえん》で二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。転覆《ひっくりかえし》でもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺《おとっさん》も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら担《かつ》ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ私《わたし》は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、今度《こんだ》こっちの大発明だ。ハハハハ。嫌《きらい》なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
「阿父《おとう》さまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日が中《あた》って二階の方が松のために好いって」
「阿爺《おやじ》も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。発句《ほっく》?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは伊勢崎《いせざき》でしょう」
「いやに光《ぴか》つくじゃないか。兄さんのかい」
「阿爺《おとうさま》のよ」
「阿爺《おとっさん》のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無《ちゃんちゃん》以後|御見限《おみかぎ》りだね」
「あらいやだ。あんな嘘《うそ》ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい襟垢《えりあか》だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏《あぶら》が多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父《おとっさん》の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古《おふる》ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠《じんがさ》をかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。可哀想《かわいそう》に」
「まだ、あるのよ」
 宗近君は返事をやめて、欄干《らんかん》の隙間《すきま》から庭前《にわさき》の植込を頬杖《ほおづえ》に見下している。
「まだあるのよ。一寸《ちょいと》」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと撮《つま》んだ合せ目を、見る間《ま》に括《く》けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔《めど》を障子《しょうじ》へ向けて、可愛《かわい》らしい二重瞼《ふたえまぶた》を細くする。宗近君は依然として長閑《のどか》な心を頬杖に託して庭を眺《なが》めている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
 下顎《したあご》は頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉《のど》から鼻へ抜ける。
「あし[#「あし」に傍点]。分ったでしょう」
「う。うん」
 紺の糸を唇《くちびる》に湿《しめ》して、指先に尖《とが》らすは、射損《いそく》なった針孔を通す女の計《はかりごと》である。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母《おっかさん》が御出《おいで》よ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶《かな》わない」
「でも品《ひん》がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが嫌《きらい》じゃ、世話の仕栄《しばえ》がない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無《ちゃんちゃん》の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島《むこうじま》は駄目だが荒川《あらかわ》は今が盛《さかり》だよ。荒川から萱野《かやの》へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山《たんと》はないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を借《か》してちょうだい」
「そうして裁縫《しごと》を勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石《ダイヤモンド》の指環《ゆびわ》を買ってやる」
「旨《うま》いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに鋏《はさみ》はなくって」
「その蒲団《ふとん》の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落《しゃれ》かい」
「これ? 奇麗《きれい》でしょう。縮緬《ちりめん》の御申《おさる》さん」
「御前がこしらえたのかい。感心に旨《うま》く出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側《えんがわ》へ煙草の灰を捨てるのは御廃《およ》しなさいよ。――これを借《か》して上げるから」
「なんだいこれは。へええ。板目紙《いためがみ》の上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人《ひまじん》だなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸の屑《くず》をかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのような方《かた》が好きなんでしょう」
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
「嫌《いや》でもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母《おばさん》はしきりに密談をしているね」
「ことに因《よ》ると藤尾さんの事かも知れなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨《ひのし》がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分の家《うち》で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも剣呑《けんのん》だね。それじゃこっちも気息《いき》を殺して寝転《ねころ》んでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
 裁縫《しごと》の手を休《や》めて、火熨に逡巡《ためら》っていた糸子は、入子菱《いりこびし》に縢《かが》った指抜を抽《ぬ》いて、※[#「年+鳥」、第3水準1-94-59]色《ときいろ》に銀《しろかね》の雨を刺す針差《はりさし》を裏に、如鱗木《じょりんもく》の塗美くしき蓋《ふた》をはたと落した。やがて日永《ひなが》の窓に赤くなった耳朶《みみたぶ》のあたりを、平手《ひらて》で支えて、右の肘《ひじ》を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた膝《ひざ》を斜めに崩《くず》した。襦袢《じゅばん》の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく滑《すべ》って、くっきりと普通《つね》よりは明かなる肉の柱が、蝶《ちょう》と傾く絹紐《リボン》の下に鮮《あざや》かである。
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか無躾《ぶしつけ》に聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで巫女《いちこ》だね。――御前がそう頬杖《ほおづえ》を突いて針箱へ靠《も》たれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴《あっぱれ》な姿勢だハハハハ」
「沢山《たんと》御冷《おひ》やかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」
 云いながら糸子は首を支《ささ》えた白い腕をぱたりと倒した。揃《そろ》った指が針箱の角を抑《おさ》えるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、圧《お》し付けられた手の痕《あと》を耳朶《みみたぶ》共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重《ふたえ》の瞼《まぶた》は、涼しい眸《ひとみ》を、長い睫《まつげ》に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を肘《ひじ》に撥《は》ねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出《はで》な色の絹紐《リボン》がちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と俯目《ふしめ》になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
「今度《こんだ》の試験の結果はまだ分らないの」
「もう直《じき》だろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
「好《よ》かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある方《かた》が好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例《たとえ》に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の至《いたり》だ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも苦《く》にならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃《よ》そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
 深い日は障子を透《とお》して糸子の頬を暖かに射る。俯向《うつむ》いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と翻《ひるが》える襦袢《じゅばん》の袖《そで》のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑《おさ》えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、旨《うま》く手が届くね。盲目《めくら》にすると疳《かん》の好い按摩《あんま》さんが出来るよ」
「だって慣《な》れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に琴《こと》を引く別嬪《べっぴん》がいてね」
「端書《はがき》に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山《あらしやま》へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚《みと》れて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「嘘《うそ》よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁《いんねん》だよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら廃《よ》そう」
「その女の方《かた》は何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目《まじめ》にならなくっても好い。実は嘘《うそ》だ。全く兄さんの作り事さ」
「悪《にく》らしい」
 糸子はめでたく笑った。