2008年11月6日木曜日

十五

 部屋は南を向く。仏蘭西式《フランスしき》の窓は床《ゆか》を去る事五寸にして、すぐ硝子《ガラス》となる。明《あ》け放てば日が這入《はい》る。温《あたた》かい風が這入る。日は椅子《いす》の足で留まる。風は留まる事を知らぬ故、容赦なく天井《てんじょう》まで吹く。窓掛の裏まで渡る。からりとして朗らかな書斎になる。
 仏蘭西窓を右に避けて一脚の机を据《す》える。蒲鉾形《かまぼこなり》に引戸を卸《おろ》せば、上から錠《じょう》がかかる。明ければ、緑の羅紗《らしゃ》を張り詰めた真中を、斜めに低く手元へ削《けず》って、背を平らかに、書を開くべき便宜《たより》とする。下は左右を銀金具の抽出《ひきだし》に畳み卸してその四つ目が床に着く。床は樟《くす》の木の寄木《よせき》に仮漆《ヴァーニッシ》を掛けて、礼に叶《かな》わぬ靴の裏を、ともすれば危からしめんと、てらてらする。
 そのほかに洋卓《テエブル》がある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様《いまよう》を華奢《きゃしゃ》な昔に忍ばして、室《へや》の真中を占領している。周囲《まわり》に並ぶ四脚の椅子は無論|同式《どうしき》の構造《つくり》である。繻子《しゅす》の模様も対《つい》とは思うが、日除《ひよけ》の白蔽《しろおい》に、卸す腰も、凭《もた》れる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。
 書棚は壁に片寄せて、間《けん》の高さを九尺|列《つら》ねて戸口まで続く。組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋《むこう》から取り寄せたものである。いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘わすなかに花文字の、角文字《かくもじ》の金は、縦にも横にも奇麗である。
 小野さんは欽吾《きんご》の書斎を見るたびに羨《うらやま》しいと思わぬ事はない。欽吾も無論|嫌《きら》ってはおらぬ。もとは父の居間であった。仕切りの戸を一つ明けると直《すぐ》応接間へ抜ける。残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。洋風の二間は、父が手狭《てぜま》な住居《すまい》を、二十世紀に取り拡《ひろ》げた便利の結果である。趣味に叶《かな》うと云わんよりは、むしろ実用に逼《せま》られて、時好の程度に己《おの》れを委却《いきゃく》した建築である。さほどに嬉《うれ》しい部屋ではない。けれども小野さんは非常に羨ましがっている。
 こう云う書斎に這入《はい》って、好きな書物を、好きな時に読んで、厭《あ》きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽《ごくらく》だろうと思う。博士論文はすぐ書いて見せる。博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述をして見せる。定めて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を攪《か》き廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に這入《はい》りたくてたまらない。
 高等学校こそ違え、大学では甲野《こうの》さんも小野さんも同年であった。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。ただ「哲世界と実世界」と云う論文を出して卒業したと聞くばかりである。「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分るはずがないが、とにかく甲野さんは時計をちょうだいしておらん。自分はちょうだいしておる。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善悪《よしあし》をも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典に洩《も》れた甲野さんは大した人間ではないにきまっている。その上卒業してからこれと云う研究もしないようだ。深い考を内に蓄《たくわ》えているかも知れぬが、蓄えているならもう出すはずである。出さぬは蓄がない証拠と見て差支《さしつかえ》ない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。その有益な材を抱いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手を拱《こまぬ》いて、徒然《とぜん》の日を退屈そうに暮らしている。この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。自分が甲野の身分でこの部屋の主人《あるじ》となる事が出来るなら、この二年の間に相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、驥《き》も櫪《れき》に伏す天の不公平を、やむを得ず、今日《きょう》まで忍んで来た。一陽は幸《さち》なき人の上にも来《きた》り復《かえ》ると聞く。願くは願くはと小野さんは日頃に念じていた。――知らぬ甲野さんはぽつ然《ねん》として机に向っている。
 正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い芝生《しばふ》を一目に見渡すのみか、朗《ほがらか》な気が地つづきを、すぐ部屋のなかに這入るものを、甲野さんは締め切ったまま、ひそりと立て籠《こも》っている。
 右手の小窓は、硝子《ガラス》を下《おろ》した上に、左右から垂れかかる窓掛に半《なか》ば蔽《おお》われている。通う光線《ひかり》は幽《かす》かに床《ゆか》の上に落つる。窓掛は海老茶《えびちゃ》の毛織に浮出しの花模様を埃《ほこり》のままに、二十日ほどは動いた事がないようである。色もだいぶ褪《さ》めた。部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然として立派に通用する。窓掛の隙間《すきま》から硝子へ顔を圧《お》しつけて、外を覗《のぞ》くと扇骨木《かなめ》の植込《うえごみ》を通して池が見える。棒縞《ぼうじま》の間から横へ抜けた波模様のように、途切れ途切れに見える。池の筋向《すじむこう》が藤尾《ふじお》の座敷になる。甲野さんは植込も見ず、池も見ず、芝生も見ず、机に凭《よ》ってじっとしている。焚《た》き残された去年の石炭が、煖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずる体《てい》である。
 やがて、かたりと書物を置き易《か》える音がする。甲野さんは手垢《てあか》の着いた、例の日記帳を取り出して、誌《つ》け始める。
「多くの人は吾《われ》に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。曰《いわ》く。命に服せざれば汝を嫉《にく》まんと」
 細字《さいじ》に書き終った甲野さんは、その後《あと》に片仮名《かたかな》でレオパルジと入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物を再び故《もと》の座に直して、静かに読み始める。細い青貝の軸を着けた洋筆《ペン》がころころと机を滑《すべ》って床《ゆか》に落ちた。ぽたりと黒いものが足の下に出来る。甲野さんは両手を机の角《かど》に突張って、心持腰を後《うしろ》へ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。手捜《てさぐり》に取り上げた洋筆軸《ペンじく》は父が西洋から買って来てくれた昔土産《むかしみやげ》である。
 甲野さんは、指先に軸を撮《つま》んだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らして掌《てのひら》のなかに落し込む。掌の向《むき》を上下に易《か》えると、長い軸は、ころころと前へ行き後《うし》ろへ戻る。動くたびにきらきら光る。小さい記念《かたみ》である。
 洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。頁《ページ》をはぐるとこんな事が、かいてある。
「剣客の剣を舞わすに、力|相若《あいし》くときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌《いっちゅう》の末に制する事|能《あた》わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を欺《あざむ》くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐《きっさ》に富むとき、二人《ににん》の位地は、誠実をもって相対すると毫《ごう》も異なるところなきに至る。この故に偽[#「偽」に傍点]と悪[#「悪」に傍点]とは優勢[#「優勢」に傍点]を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽《ふそくぎ》、不足悪に出会《しゅっかい》するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事|難《かた》しとす。第三の場合は固《もと》より稀《まれ》なり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において匹敵《ひってき》するをもって常態とすればなり。人|相賊《あいぞく》してついに達する能《あた》わず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に到《いた》り得べきを思えば、悲しむべし」
 甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の洋筆軸《ペンじく》を、ぽとりと墨壺《すみつぼ》の底に落す。落したまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。レオパルジは開いたまま、黄な表紙の日記を頁《ページ》の上に載せる。両足を踏張《ふんば》って、組み合せた手を、頸根《くびね》にうんと椅子の背に凭《もた》れかかる。仰向《あおむ》く途端に父の半身画と顔を見合わした。
 余り大きくはない。半身とは云え胴衣《チョッキ》の釦《ボタン》が二つ見えるだけである。服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかに洩《も》るる白襯衣《しろシャツ》の色と、額の広い顔だけである。
 名のある人の筆になると云う。三年|前《ぜん》帰朝の節、父はこの一面を携えて、遥《はる》かなる海を横浜の埠頭《ふとう》に上《のぼ》った。それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間に懸《かか》っている。仰がぬ時も壁間から欽吾を見下《みおろ》している。筆を執《と》るときも、頬杖《ほおづえ》を突くときも、仮寝《うたたね》の頭を机に支うるときも――絶えず見下している。欽吾がいない時ですら、画布《カンヴァス》の人は、常に書斎を見下している。
 見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せに錬《ね》り上げた眼玉ではない。一刷毛《ひとはけ》に輪廓を描《えが》いて、眉と睫《まつげ》の間に自然の影が出来る。下瞼《したまぶた》の垂味《たるみ》が見える。取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。その中に瞳《ひとみ》が活《い》きている。動かないでしかも活きている刹那《さつな》の表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速《さそく》に捕えた非凡の技《ぎ》と云わねばならぬ。甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。
 想界に一瀾《いちらん》を点ずれば、千瀾追うて至る。瀾々《らんらん》相擁《あいよう》して思索の郷《くに》に、吾を忘るるとき、懊悩《おうのう》の頭《こうべ》を上げて、この眼にはたりと逢《あ》えば、あっ、在《あ》ったなと思う。ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりも烈《はげ》しくおやいたなと驚ろいた。
 思出《おもいで》の種に、亡《な》き人を忍ぶ片身《かたみ》とは、思い出す便《たより》を与えながら、亡き人を故《もと》に返さぬ無惨《むざん》なものである。肌に離さぬ数糸の髪を、懐《いだ》いては、泣いては、月日はただ先へと廻《めぐ》るのみの浮世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのが厭《いや》になった。離れても別状がないと落つきの根城を据《す》えて、咫尺《しせき》に慈顔《じがん》を髣髴《ほうふつ》するは、離れたる親を、記憶の紙に炙《あぶ》り出すのみか、逢《あ》える日を春に待てとの占《うら》にもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ眼玉だけである。それすら活きているのみで毫《ごう》も動かない。――甲野さんは茫然《ぼうぜん》として、眼玉を眺《なが》めながら考えている。
 親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。髭《ひげ》もまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に罹《かか》って頓死《とんし》してしまった。……
 活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは椅子《いす》に倚《よ》り掛ったまま、壁の上を見詰めている。二人の眼は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うの眸《ひとみ》が何となく働らいて来た。睛《せい》を閑所《かんしょ》に転ずる気紛《きまぐれ》の働ではない。打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんに逼《せま》って来る。甲野さんはおやと、首を動《うごか》した。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。いつの間《ま》にやら、眼のなかへ引き返したと見える。一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。
 馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。身体《からだ》が衰弱したせいか、頭脳《あたま》の具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい親父《おやじ》に似ているだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れと逼《せび》られるようなものだ。うるさいのみか不快になる。
 それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを貪《むさぼ》るだけで、頭はほかの国に、母も妹《いもと》も忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、踵《かかと》を上げる事を解《げ》し得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。自分は自分にすべてを棄《す》てる覚悟があるにもせよ、この体《てい》たらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて不肖《ふしょう》の子と思うだろう。不肖の子は親父の事を思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……
 十人は十人の因果《いんが》を持つ。羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹くは、株《しゅ》を守って兎を待つと、等しく一様の大律《たいりつ》に支配せらる。白日天に中《ちゅう》して万戸に午砲の飯《いい》を炊《かし》ぐとき、蹠下《しょか》の民は褥裏《じょくり》に夜半《やはん》太平の計《はかりごと》熟す。甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と藤尾《ふじお》は日本間の方で小声に話している。
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った節糸《ふしいと》の袷《あわせ》は存外|地味《じみ》な代りに、長く明けた袖《そで》の後《うしろ》から紅絹《もみ》の裏が婀娜《あだ》な色を一筋《ひとすじ》なまめかす。帯に代赭《たいしゃ》の古代模様《こだいもよう》が見える。織物の名は分らぬ。
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ縞物《しまもの》を、年相応に着こなして、腹合せの黒だけが目に着くほどに締めている。
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。座布団《ざぶとん》の縁《ふち》を捲《まく》って、
「おや、煙管《きせる》はどうしたろう」と云う。
 煙管は火鉢の向う側にある。長い羅宇《らお》を、逆《ぎゃく》に、親指の股《また》に挟んで
「はい」と手取形の鉄瓶《てつびん》の上から渡す。
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば御廃《およ》しかい」と母は皮肉に云い切ったまま、下を向いて、雁首《がんくび》へ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄金《おうごん》である。
 五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口を開《あ》いた。
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ私《わたし》が話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」
「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、初手《しょて》からこうしないでもほかにいくらも遣口《やりくち》はあらあね」
「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話も何も要《い》りゃしないんだが。どうも表向|家《うち》の相続人だから、あの人がうんと云ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」
「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」
「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促する訳にも行かないでしょう」
「なにくれるものなら、催促して貰《もら》ったって、構わないんだが――ただ世間体《せけんてい》がわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出し悪《にく》いよ」
「だから、話したら好《い》いじゃありませんか」
「何を」
「何をって、あの事を」
「小野さんの事かい」
「ええ」と藤尾は明暸《めいりょう》に答えた。
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、御母《おっか》さんの口から、御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね」
「だって向《むこう》で世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ御母《おっか》さんをどうするつもりなんです」
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
 母は黙っている。
「この間金時計を宗近《むねちか》にやれって云った時でも……」
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。一《はじめ》さんに上げるとは云わなかったわ」
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て御貰《おもら》いなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の方《かた》を見る。夕暮を促がすとのみ眺められた浅葱桜《あさぎざくら》は、ことごとく梢《こずえ》を辞して、光る茶色の嫩葉《わかば》さえ吹き出している。左に茂る三四本の扇骨木《かなめ》の丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝を伸《の》した桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
 静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を真向《まむき》に見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい片頬《かたほ》をむずつかせた。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然《じねん》と消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺《おとっさん》に逢って、よく理由《わけ》は話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」
「それは覚えていますけれども、何だか判然《はっきり》しないようだったから」
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が厭《いや》だと申しますから、平《ひら》に御断わり申しますとは云えないからね」
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨《むきだし》でも構わないと御思《おおもい》かも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり蓋《ふた》も味《み》もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を貰《もら》うと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に下《くだ》して来る。ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、欽吾《あれ》があのまま押し通す料簡《りょうけん》なら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。すると一《はじめ》さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪《かんしゃく》の八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。
「貰うなら、貰うで、糸子《いとこ》でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と地烈太《じれった》そうに云い切った後で
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、彼《あの》男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上《さしあげ》ましょうと約束したって大丈夫だよ」
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
 藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の御叔父《おじさん》はたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり同《おんな》じですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「一昨日《おととい》、一昨々日《さきおととい》の晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると謎《なぞ》が通じなかったかも知れないね」とさも歯痒《はがゆ》そうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
 母は立ち上がった。椽側《えんがわ》へ出た足を一歩《ひとあし》後《あと》へ返して、小声に
「御前、一に逢《あ》うだろう」と屈《こごみ》ながら云う。
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日《あした》だったかね」
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
 母は書斎に向う。
 からりとした椽《えん》を通り越して、奇麗な木理《もくめ》を一面に研《と》ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕《ノッブ》を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木《よせき》の床《ゆか》に落した時、釘舌《ボールト》のかちゃりと跳《は》ね返る音がする。窓掛に春を遮《さえ》ぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓《テエブル》まで来て立ち留まる。椅子《いす》の背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭《かたひげ》が上唇を沿うて、自然《じねん》と下りて来て、尽んとする角《かど》から、急に捲《ま》き返す。口は結んでいる。同時に黒い眸《ひとみ》は眼尻まで擦《ず》って来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
 無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と緩《ゆっくり》聞いた。
「どうでも――母《おっか》さんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶《うっとう》しいだろうと思ってさ」
 無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。促《うな》がされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰を卸《おろ》した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と生返事《なまへんじ》をした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝《そとくろぶし》を乗せる。母の眼からは、ただ裄《ゆき》の縮んだ卵色の襯衣《シャツ》の袖が正面に見える。
「身体《からだ》を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」
 句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎《あご》を咽喉《のど》へ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
 甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、他人《ひと》の事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い襞《ひだ》が左右に切れる間から、扇骨木《かなめ》の若葉が燃えるように硝子《ガラス》に映《うつ》る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、廓《から》っとして、書斎より心持が好いから。たまには、一《はじめ》のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
 甲野さんは眩《まぶ》しそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変|奇麗《きれい》に芽《め》を吹きましたね」
「見事だね。かえって生《なま》じいな花よりも、好《よ》ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。向《むこう》へ廻ると刈り込んだのが丸《まある》く揃《そろ》って、そりゃ奇麗」
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
 甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉《ひごい》が、まことによく跳《はね》るんで……ここから聞えますかい」
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。母《おっか》さんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て稽古《けいこ》をする時分だろう。――何か用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に障《さわ》る事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」
 甲野さんは腕組のまま、じっと、深い瞳《ひとみ》を母の上に据《す》えた。母の眼はなぜか洋卓《テエブル》の上に落ちている。
「世話はする気です」と徐《しず》かに云う。
「御前がそう云ってくれると私《わたし》もまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は後《あと》を待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子に倚《よ》る背を前に、胸を洋卓《テエブル》の角《かど》へ着けるほど母に近づいた。
「ですが、母《おっか》さん。藤尾の方では世話になる気がありません」
「そんな事が」と今度は母の方が身体《からだ》を椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かに繋《つな》げて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
 甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を逼《せま》らして、
「藤尾《あれ》も実は可哀想《かわいそう》だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんは肘《ひじ》を立てて、手の平で額《ひたい》を抑えた。
「だって見縊《みくび》られているんだから、世話を焼けば喧嘩《けんか》になるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と打《う》ち消《けし》はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一|私《わたし》が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
 甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
 甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺《なが》めている。
「もし不都合があったら、私から篤《とく》と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味《きまず》い事があっちゃあ面白くないから」
 額に加えた五本の指は、節長に細《ほっそ》りして、爪の形さえ女のように華奢《きゃしゃ》に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて四《し》になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも聟《むこ》とも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
 右の眉《まゆ》はやはり手の下に隠れている。眼の光《いろ》は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、母《おっか》さんが困るからね」
 甲野さんは手の甲の影で片頬《かたほ》に笑った。淋《さみ》しい笑である。
「身体《からだ》が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
 甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓《テエブル》の上には一枚の罫紙《けいし》に鉛筆が添えて載《の》せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。読み掛けて気がついた。昨日《きのう》読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片《かみきれ》である。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
 母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を執《と》って紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」
 烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
 鳥と云う字が鴃《げき》の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
 云い終った母は悄然《しょうぜん》として下を向いた。同時に忰《せがれ》の紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なって鱗《うろこ》の紋になる。
「母《おっ》かさん。家《うち》は藤尾にやりますよ」
「それじゃ御前……」と打《う》ち消《けし》にかかる。
「財産も藤尾にやります。私《わたし》は何にもいらない」
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。母子《おやこ》はちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父《おとっ》さんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と飴色《あめいろ》に塗った鉛筆を洋卓の上にはたりと放《ほう》り出した。
「どうすれば好いか、どうせ母《おっか》さんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
「厭《いや》なんですか」
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「私《わたし》も無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終《しょっちゅう》云ってるじゃないか」
「御礼は始終聞いています」
 母は転がった鉛筆を取り上げて、尖《とが》った先を見た。丸い護謨《ゴム》の尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓《テエブル》の上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあっても家《うち》を襲《つ》ぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、母《おっ》かさんの世話はしてくれないんだね」
 甲野さんは返事をする前に、眸《ひとみ》を長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃《いんぎん》に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
 母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と緩《ゆっ》くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
 甲野さんはじっと眼を凝《こ》らして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「母《おっ》かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
 甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて瞬《またたき》を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一《はじめ》かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――父《おとっ》さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか父《おとっ》さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を傾《かた》げた。
「父さんの金時計です。柘榴石《ガーネット》の着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「一《はじめ》はまだ当《あて》にしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が預《あずか》っているから、私《わたし》から、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事を重《おも》に云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に逆《さから》うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚《おぼえ》がないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を襲《つ》がなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が母《おっ》かさんの云う事を聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の料簡《りょうけん》を間違えて取っておくれだと困るが――母《おっか》さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗《きれい》なつもりだがね。そうは見えないか知ら」
「見えます」と甲野さんが云った。極《きわ》めて真面目《まじめ》な調子である。母にさえ嘲弄《ちょうろう》の意味には受取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、後《あと》が困るんでね」
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。叮嚀《ていねい》で、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」
「そんなら好いです」
「そう素気《そっけ》なく云わずと、何か考《かんがえ》があるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」
 しばらく罫紙《けいし》の上の楽書《らくがき》を見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。
「宗近の方が小野より母《おっか》さんを大事にします」
「そりゃ」とたちまち出る。後《あと》から静かに云う。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には行《い》かないもんだからね」
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃ私《わたし》も知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」
「呼びましょう」
 母は立った。薄紅色《ときいろ》に深く唐草《からくさ》を散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く電鈴《ベル》を、白きただ中に押すと、座に返るほどなきに応《こたえ》がある。入口の戸が五寸ばかりそっと明《あ》く、ところを振り返った母が
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
 母と子は洋卓《テエブル》を隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。三《み》つ鱗《うろこ》の周囲《まわり》に擦《す》れ擦れの大きさに円《まる》を描《か》く。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本|叮嚀《ていねい》に並行させて行く。母は所在なさに、忰《せがれ》の図案を慇懃《いんぎん》に眺《なが》めている。
 二人の心は無論わからぬ。ただ上部《うわべ》だけはいかにも静である。もし手足《しゅそく》の挙止が、内面の消息を形而下《けいじか》に運び来《きた》る記号となり得るならば、この二人ほどに長閑《のどか》な母子《おやこ》は容易に見出し得まい。退屈の刻を、数十《すじゅう》の線に劃《かく》して、行儀よく三つ鱗の外部《そとがわ》を塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなる円《まる》の中を、端然《たんねん》と打ち守る母とは、咸雍《かんよう》の母子である。和怡《わい》の母子である。挟《さしは》さむ洋卓に、遮《さえぎ》らるる胸と胸を対《むか》い合せて、春|鎖《とざ》す窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。亡《な》き人の肖像は例に因《よ》って、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
 丹念に引く線はようやく繁《しげ》くなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る弓形《ゆみなり》の一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌《ボールト》を捩《ねじ》る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線の半《なか》ばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
「炙《あぶ》り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰を卸《おろ》す。卸し終った時、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
 藤尾は再び母の方を見た。見ると共に薄笑《うすわらい》の影が奇麗《きれい》な頬にさす。兄はやっと口を切る。
「藤尾、この家《うち》と、私《わたし》が父《おとっ》さんから受け襲《つ》いだ財産はみんな御前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代り、母《おっか》さんの世話は御前がしなければいけない」
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても厭《いや》か」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
 藤尾は屹《きっ》となる。
「それを聞いて何になさる」と椅子《いす》の上に背を伸《の》して云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも軽蔑《けいべつ》したように落す。母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんより一《はじめ》の方がよかろうと云う話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と閑静《しずか》に云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値《ねうち》は分りません。けっして分りません。一さんを賞《ほ》める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
 云い棄《す》てて紫の絹《リボン》は戸口の方へ揺《うご》いた。繊《ほそ》い手に円鈕《ノッブ》をぐるりと回すや否《いな》や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。

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